伝記
アリー・フジュウィーリーは、ガズナ朝の領域に生まれたイスラムの学者、神秘家である。出生地はガズナ近郊のフジュウィールとされ、生年は1009年ごろともいわれるが、正確には分からない。アブル・ハサン・アリー・イブン・ウスマーン・ジュッラービー・フジュウィーリーという名で知られる一方、自分の著作では一貫してジュッラービーと名乗った。後世には、南アジアを中心に「宝を授ける者」を意味するダータ・ガンジ・バフシュ、あるいはダータ・サーヒブという尊称で呼ばれるようになった。父ウスマーンを通じてアリーの子孫に連なるという系譜も語られるが、本人が現存する著作で主張したものではなく、世代数や系統についても一定していない。
ガズナ近郊で育ち、アブル・ファドル・ムハンマド・フッタリーに師事した。この師の系譜は、フスリー、アブー・バクル・シブリー、ジュナイドらに連なり、宗教法の遵守を重んじるバグダードの神秘主義の流れに属した。フジュウィーリー自身もハナフィー派の法学を学んだ。各地を旅してバグダード、ニーシャープール、ダマスクスに長く滞在し、バーヤズィード・バスターミーやアブー・サイード・アブル・ハイルの墓を訪れた。イラクで負債を抱えた時期があり、短い結婚生活も経験したが、幸福な結婚ではなかったとされる。こうした遍歴ののち、ガズナ朝のスルタン、マスウードの治世にラホールへ移ったと考えられている。
ラホールへの移住の事情は明確ではない。布教のため自ら旅立ったとも、本人の意思に反して連れてこられたともいわれ、晩年に拘禁されていた可能性もある。ヒンドゥー教徒の多い土地に向けて計画的に派遣されたという説明にも、確実とはいえない部分が残る。ラホールでは、ペルシア語によるスーフィズムの最初期の論書『カシュフ・アル=マフジューブ』を少なくとも一部執筆した。その際、ガズナに残してきた蔵書を利用できないことに苦労した。この著作では教義の議論と先行する神秘家の伝記を組み合わせ、真正な神秘主義は宗教法の外には成立しないという主張を展開した。サッラージュの著作や、スラミー、クシャイリーらの記述を広く用いている。最初の四人のカリフと、シーア派が認める複数のイマームを、神秘家としての徳を伝える一つの系譜に置くことも特徴であった。
没年は1072年とされることが多いが、1071年から1077年の間とも考えられ、正確な月日は確定していない。死後、ラホールを代表する聖者として地域のスーフィーたちに崇敬された。説教を通じて南アジアへのイスラムの普及に大きく寄与したと考えられている。その名は南アジアの日常の信仰のなかでも親しまれた。墓廟はダータ・ダルバールと呼ばれ、南アジアでも参詣者の多い聖地となった。後世の信徒の間には、ムイーヌッディーン・チシュティーが墓を訪れ、フジュウィーリーをたたえる詩句を詠んだという伝承もある。ただし、これは後の時代に伝えられた話である。墓廟は1960年に国有化され、パンジャーブの宗教行政のもとで管理されるようになった。2016年には、三日間にわたる命日の祭礼の開始を記念して、パキスタン政府が11月21日を休日とした。
同じ年に亡くなった人物
- ヘリワード・ザ・ウェイク (1072年)
- オルドルフ (ザクセン公) (1072年没)
- アルプ・アルスラーン (1072年没)
- スティガンド (1072年没)
- アブル・カースィム・クシャイリー (1072年没)
同じ地域に関係する人物
- Zarina Baloch (2005年没)
- シャフリヤール (ムガル皇子) (1628年没)
- ムハンマド・イクバール (1938年没)
- ヤヒヤー・ハーン (1980年没)
- カラク・シング (1840年没)