伝記
ペトルス・ダミアニは、1007年にラヴェンナの貧しい貴族の家に生まれた神学者、修道士である。末子として生まれ、幼くして両親を失い、貧困のなかで育った。兄ダミアンのもとに引き取られ、当初は豚飼いとして酷使されたが、才能を認められて教育を受けるようになった。兄への感謝からその名を自分の名に加えたとされる。ラヴェンナ、パルマ、ファエンツァで神学と教会法を学び、25歳のころにはラヴェンナとパルマで教授として知られていた。1035年ごろ世俗の職を離れ、グッビオに近いフォンテ・アヴェッラーナで修道生活に入った。激しい修行で健康を損なったが、回復後は修道士への講義を任され、近隣の修道院にも教えに赴いた。1042年ごろには『聖ロムアルドの生涯』を著し、翌年にはフォンテ・アヴェッラーナの長老となった。
修道院では鞭打ちを含む厳しい戒律を導入した。反対も受けたが、その実践はモンテ・カッシーノなどにも広まった。一部の支持者が行き過ぎると自ら制止し、夜の務めによる疲労を補うため昼寝も戒律に組み入れた。長老在任中には回廊を増設し、銀の聖餐杯や行列用十字架を購入し、蔵書を充実させた。修道院に身を置きながら、ヒルデブランド、のちの教皇グレゴリウス7世らと教会改革に携わった。1045年に成立した教皇グレゴリウス6世を支持し、聖職者の腐敗に対処するよう書簡で訴えた。神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世とも交流し、1047年には聖職売買を禁じたラテラノの教会会議に出席した。
1050年ごろには『ゴモラの書』を教皇レオ9世に捧げ、聖職者の性的な行状を激しく非難した。著作は論争を招き、当初称賛した教皇も内容を誇張とみなすようになると、ダミアニは抗議の手紙を重ねた。一方、1053年ごろの『秘蹟論』では、聖職売買そのものには反対しつつも、それによる叙任の有効性は認める立場を示した。1057年には辞退を試みた末にオスティア司教と枢機卿の地位を受け入れた。教皇選出をめぐる分裂では改革派に立ち、1059年末には使節としてミラノに向かった。聖職売買と聖職者の結婚が問題となるなか、大司教以下に今後は昇進の代償を払わないと誓わせ、過ちの償いを求めた。そのうえで独身生活を選んだ者を聖職に復帰させる処置は、ローマの急進派から批判された。
1061年以降の教会分裂ではアレクサンデル2世を支援し、対立するホノリウス2世を説得しようとした。1063年にはフランスへ赴き、クリュニー修道院とマコン司教の争いを裁定した。しかし1067年のフィレンツェでは、聖職売買を訴えられた司教を支持して判断を誤り、紛争の解決に失敗した。1069年にはハインリヒ4世の離婚を思いとどまらせる教皇使節としてドイツに赴き、フランクフルトで説諭して離婚の撤回を得た。晩年にはヒルデブランドと政治的な考えが一致しないこともあった。その後は修道院で静かに暮らしたが、1072年初めにラヴェンナと教皇庁の和解のため派遣された。帰途に熱病に倒れ、ファエンツァ近郊の修道院で2月21日に没した。死後は修道院などで崇敬を集め、教会博士とされ、ダンテの『神曲』にも登場した。
同じ年に亡くなった人物
- アダルベルト (1072年没)
- オルドルフ (ザクセン公) (1072年没)
- ロマノス4世ディオゲネス (1072年没)
- バグラト4世 (ジョージア王) (1072年)
- アブル・カースィム・クシャイリー (1072年没)
同じ地域に関係する人物
- コンスタンティウス3世 (421年没)
- コンスタンティヌス3世 (411年没)
- アニータ・ガリバルディ (1849年没)
- ジョバンニ・グァレスキ (1968年没)
- アエティウス (454年没)