伝記
エドウィンは、ノルマン人の征服前後のイングランドで活動したアングロ・サクソン人のマーシア伯である。父はエルフガール、祖父はレオフリックで、弟にノーサンブリア伯となるモーカーがいた。姉妹のエルドギスはイングランド王ハロルド・ゴドウィンソンの妃となった。父の死は1062年頃とされ、エドウィンはその後にマーシア伯位を継いだ。一族の所領はチェシャーからウォリックシャー、ウスターシャーにかけての西ミッドランズに多く、父と祖父から受け継いだ土地がその基盤であった。
1065年、ノーサンブリアでトスティ・ゴドウィンソンに対する反乱が起こった。北部の有力者はトスティを追放してモーカーを伯に選び、軍勢を率いて南下した。エドウィンは自身の伯領の兵を連れ、多数のウェールズ人とともにノーサンプトンで弟に合流した。反乱側はハロルドを仲介としてエドワード懺悔王にモーカーの承認を求め、王はこれを受け入れた。交渉の間、北部軍は周辺の住民を殺害し、家や穀物を焼き、家畜を奪って捕虜を連行した。トスティとの和解は成立せず、エドウィンの援助を受けた反乱側はトスティを国外へ追いやった。
1066年春、トスティは60隻の船団を率いて戻り、南岸を襲ったのちハンバー川へ入った。エドウィンは陸上軍を率いて出撃し、これを退けた。トスティはスコットランドへ逃れ、やがてノルウェー王ハーラル・シグルズソンと合流する。両者がヨークへ迫ると、エドウィンとモーカーはそれぞれの伯領から兵を集め、ハロルド王の到着を待たずに迎撃した。9月20日、ヨーク近郊で行われたフルフォードの戦いでは、兄弟の軍は初め敵に損害を与えたが、長い戦闘の末に敗走した。イングランド側は多くの戦死者と溺死者を出した。その5日後、北上したハロルドはスタンフォード・ブリッジでノルウェー軍を破り、ハーラルとトスティを戦死させた。
同年10月、ハロルドはヘイスティングスの戦いでノルマンディー公ウィリアムに敗れて戦死した。エドウィンとモーカーがこの戦役に参加したかどうかは明らかでない。兄弟は一時、エドガー・アシリングを王として戦うことを約束したが、その構想は実現しなかった。ウィリアムが進軍してバーカムステッドへ達すると、兄弟はエドガーやロンドンの有力者らとともに人質を出し、忠誠を誓った。翌1067年には王のノルマンディー行きにも同行している。1068年の聖霊降臨祭頃までは宮廷におり、王妃マティルダの戴冠に際する証書に証人として名を連ねた。その後、兄弟は反乱を起こしたとされるが、王の城塞建設と進軍を受け、赦しを求めて再び服従した。
1071年、エドウィンとモーカーはまたも王のもとを離れた。捕縛されることを知って宮廷を逃れ、しばらく武装して抵抗したともいわれる。やがて兄弟は別れ、モーカーはイーリーへ向かった。エドウィンはスコットランド王マルカム3世を頼ろうとしたが、途中で自分の従者に裏切られて殺害された。約20人の武装した従者と抵抗したものの、満潮で川岸の逃げ道を失ったとも伝えられる。ウィリアムはその死を知って涙を流し、首を持参して恩賞を求めた裏切者を追放したという。
同じ年に亡くなった人物
- ホノリウス2世 (対立教皇) (1071年没)
- アルモディス・ド・ラ・マルシュ (1071年没)
- ウィリアム・フィッツオズバーン (初代ヘレフォード伯) (1071年)
- アルヌール3世 (フランドル伯) (1071年没)
- ドメニコ・コンタリーニ (1071年)
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