伝記
アルモディス・ド・ラ・マルシュは、リュジニャン、トゥールーズ、バルセロナの有力者との婚姻を重ねた中世の貴族女性である。1020年頃とも1023年頃ともいわれる時期に、ラ・マルシュ伯ベルナール1世と妻アメリーの娘として生まれた。姉妹にはランガルド、リュシー、アニェスがおり、ランガルドはカルカソンヌ伯妃となった。アルモディスは1030年代にユーグ5世・ド・リュジニャンと結婚し、ユーグ6世、ジョルダンらの子をもうけた。しかし、この婚姻は近親婚を理由として解消された。1040年頃にはトゥールーズ伯ポンスの妻となり、ギヨーム4世、レーモン4世、ユーグ、娘アルモディスを産んだ。息子ユーグはサン=ジル修道院長となっている。
1053年4月にはなおポンスの妻であったが、その後まもなくバルセロナ伯ラモン・バランゲー1世にナルボンヌから連れ去られた。この行動には、伯の同盟者であるトゥルトーザのムスリム君主が送った艦隊の援助があったとされる。ポンスが生きており、ラモンにもそれまでの妻があったにもかかわらず、二人は結婚した。ラモンから離縁されたブランシュは、ラモンの祖母エルメサンドの後援を得て教皇に訴え、夫婦は破門された。1054年には双子のラモン・バランゲーとバランゲー・ラモンが誕生した。このほかイネス、サンチャという娘たちも生まれている。
バルセロナでは婚姻をめぐる対立と並んで、周辺の有力者との関係を整える活動にも携わった。1054年には、自分に同行してきた妹リュシーとバザルー伯との婚姻を計画したが実現しなかった。1057年には別の合意によって同伯を夫に従わせたとされる。同じ年、エルメサンドは夫婦と和解して臣従し、破門解除のため教皇に働きかけた。夫婦もカタルーニャの司教たちに支援を求め、バルセロナ大聖堂の再建などを助けた。破門が解けたのは1056年とも1057年ともいわれる。1058年にはリュシーがパリャース・スビラー伯に嫁いだ。アルモディスは法にも関心を持ち、とくに西ゴートの法文を学び、バルセロナ慣習法の編纂に関わった。また、トゥルトーザとデニアのムスリム君主とも親しい関係を結んだ。
再婚後も前夫や子どもたちとのつながりは続いた。1060年、最初の夫ユーグ5世は、アルモディスとポンスの息子ギヨーム4世の助けを得て、アキテーヌ公ギヨーム8世に反乱を起こしている。1066年あるいは1067年には、娘アルモディスとメルグイユ伯の結婚式のためトゥールーズを訪ねた。この折には息子たちとともにサン=ジル、モワサック両修道院のための証書にも署名した。さらに1067年から1070年にかけて、子を残さず死んだカルカソンヌ伯の姉妹たちから権利を買い取るよう夫に勧めた。売り手はアルモディスの姪にあたり、この購入には自身の息子たちの領地を確保する意図があった。
ラモンには先妻との間に継嗣ペレ=ラモンがいたが、アルモディスが自分の双子の息子を後継者に据えるのではないかと警戒していた。1071年10月16日、ペレ=ラモンはバルセロナで継母を殺害した。この罪により継承権を失い、国外へ追放された。アルモディスはバルセロナ大聖堂に葬られた。1076年に夫が死去すると、バルセロナは双子の息子たちによって分割された。
同じ年に亡くなった人物
- ハティーブ・バグダーディー (1071年没)
- アルヌール3世 (フランドル伯) (1071年没)
- ホノリウス2世 (対立教皇) (1071年没)
- イブン・ザイドゥーン (1071年没)
- イブン・アブドゥルバッル (1071年没)
同じ地域に関係する人物
- ライモン・パニカー (2010年没)
- ラモン・チャオ (2018年没)
- マリアーノ・カニャルド (1987年没)
- パウリーノ・アルカンタラ (1964年没)
- ジュアン・マラガイ (1911年没)