HISTORICAL PERSON · 1901年没

ベンジャミン・ハリソン

アメリカの軍人・政治家で第23代大統領。祖父も大統領。南北戦争で准将を務め、上院議員を経て1888年に当選、マッキンリー関税とシャーマン法を含む経済政策を進めたが、1892年にクリーブランドに敗れた。

生涯
1901年没
死亡地
アメリカ合衆国(インディアナ州 / インディアナポリス)
出生地
アメリカ合衆国(ノースベンド)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(インディアナ州)

伝記

ベンジャミン・ハリソンは、1833年8月20日に生まれ、1901年3月13日に没したアメリカ合衆国の軍人、政治家であり、第23代大統領を務めた。祖父は第9代大統領ウィリアム・H・ハリソンである。インディアナ州から選出された唯一の大統領で、祖父も大統領であった唯一の大統領であり、曾祖父が独立宣言署名者であった唯一の大統領でもある。

オハイオ州ノースベンドで、のちに連邦下院議員となる父ジョン・スコット・ハリソンと母エリザベスの8人の子の2番目として生まれた。ハリソン家は歴史を持つ名家であったが、裕福な環境で育ったわけではなく、農業所得の大半は子供の教育に費やされ、少年時代は野外での釣りや狩猟で過ごした。祖父が大統領に選出されたとき彼は7歳で、就任式には出席しなかった。家の近くの教室が一つだけの学校で学び、1847年にシンシナティ近くのファーマーズ・カレッジに入り、1850年にオハイオ州のマイアミ大学に転じて、1852年に卒業した。同窓生にはのちに副大統領候補となるホワイトロー・リードがいた。マイアミで長老派教会に加わり、母のように死ぬまでその会員であった。大学卒業後は、シンシナティの法律事務所で法律を学び始めたが、結婚のため終える前にオックスフォードに戻った。ファーマーズ・カレッジの学長で長老派牧師の娘キャロライン・ラヴィニア・スコットと出会い、1853年10月20日に結婚して、2人の子をもうけた。

結婚後は父の農場に戻って法律の学習を終え、叔母の死で受け継いだ800ドルを元に、翌1854年インディアナポリスに転居して弁護士を開業した。同年に連邦裁判所の廷吏となり、1日2.50ドルを稼ぐようになった。ホイッグ党員の家庭で育ち、1856年に結成後間もない共和党に参加して、同年の大統領候補フレモントの支援活動を行った。1858年に共同で法律事務所を開き、1860年にはインディアナ州最高裁判所の報告官に共和党候補として立候補した。これが政治への最初の進出であった。南北戦争中は准将として北軍に勤務し、1865年に除隊した。1876年にインディアナ州知事選に出馬して落選し、1881年から1887年まで共和党の上院議員を務めた。

1888年に共和党の大統領候補となり、現職のクリーブランドを破って当選した。一般投票ではクリーブランドより約9万票少なかったが、選挙人選挙では233票対168票で勝利した。就任式では祖父の形見の帽子を用いた。政権ではマッキンリー関税法とシャーマン購銀法、シャーマン反トラスト法などが成立した。関税は50パーセント以上に引き上げられ、外国製品の価格は高騰した。連邦政府の年間支出が初めて10億ドルに達し、民主党はこれを攻撃した。1890年の中間選挙でも、1892年の大統領選でも共和党は敗北し、再選は失敗した。同年10月に妻キャロラインが60歳で死去した。

公職を退いてからはインディアナに戻り、1896年に前妻の姪メアリー・スコット・ディミックと再婚し、娘が生まれた。1899年にハーグの第一回万国平和会議に参加した。1900年にはベネズエラとイギリスの国境論争で、ベネズエラの弁護を担当し、パリで法廷に25時間以上立った。訴訟には敗れたが、国際的な名声を得た。1901年2月に重い風邪を発症し、3月13日に自宅でインフルエンザと肺炎のため、67歳で死去した。インディアナポリスのクラウン・ヒル墓地に埋葬された。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物