伝記
アブドゥッラフマーン・ハーンは、1844年ごろに生まれ、1901年10月1日に没した、アフガニスタンの首長(アミール)である。在位は1880年から1901年までで、ムハンマド・アフザル・ハーンの息子、バーラクザイ朝の創始者ドースト・ムハンマド・ハーンの孫にあたる。パシュトゥーン人で、カーブルで生まれ、青年期の多くを、父とともにバルフで過ごした。イギリス人兵士から、通常の戦術を学んだとされる。1863年に祖父がヘラートで亡くなる前、祖父は三男のシール・アリー・ハーンを後継に指名した。年長の異母兄である彼の父アフザルは、これに反発して北部で反乱を起こした。ここから、ドースト・ムハンマドの息子たちの熾烈な権力闘争が、5年近く続いた。
彼は能力と大胆さで頭角を現し、叔父シール・アリーや一族同士の争いで父を助けたが敗れ、1870年から1879年まで亡命した。トルキスタン総督府の庇護のもと、タシケントで暮らしていたが、第二次アフガン戦争の混乱の中でシール・アリーが亡くなり、その後継者ムハンマド・ヤアクーブ・ハーンも王位を棄ててインドに亡命したため、1880年に帰国した。当初は、ヘラート太守アイユーブ・ハーンとともに、反英勢力の急先鋒と見られた。しかしイギリスは、予想を超えて膨らむ戦費の負担と、戦争を主導した保守党が選挙で大敗したことから、早々に政権を委譲して撤退する方向に動いていた。彼はヤアクーブ・ハーンとの間で結ばれたガンダマク条約の受け入れなどを条件に、イギリスからアミールとなることを承認された。
これを認めないアイユーブ・ハーンが、傀儡政権の打倒を掲げて挙兵すると、駐留イギリス軍を利用して対抗した。アイユーブ・ハーンはマイワンドの戦いでイギリス軍に勝ったが、カンダハルの戦いで敗れ、ペルシャへ逃れた。1881年にイギリス軍が撤退して政権を委譲されると、外交権はイギリスに制限されていたため、内政を重視した。従来よりも中央集権化に努め、アフガニスタンの封建的な割拠状態の除去と経済発展を促した。しかし、急速な近代化政策への抵抗は強く、古くから、税を納めることで一定の自治を認められていた地域にも一切の妥協を許さなかったため、新政権の支持者の中からも反対が出た。国内の不安を察したアイユーブ・ハーンが、支持者の多いヘラートに戻ってくると、先手を打ってヘラートを攻略し、再びペルシャへ追った。
国内の反対派には容赦ない弾圧を加え、当時の国内のハザーラ人の約6割が奴隷として売られるか、インドやペルシャへの亡命を余儀なくされるほどで、その徹底ぶりから「鉄のアミール」と呼ばれた。軍に頼る専制は、広範なスパイ網で支えられていた。ある英国の役人は、その治世を「恐怖政治」と呼んだ。治世中に40回を超える反乱があったとする資料もある。一方で、彼は当時のアフガニスタンの王族の中では開明的な方で、ドースト・ムハンマドと並び、その治世で断行された諸政策が、後のアフガニスタンの礎となったことも事実とされる。英領インドとのデュアランド線をめぐる協定の交渉でも知られ、数年に及ぶ強い分権状態と内戦ののち、国をまとめたと評される。1901年10月1日に没した。
同じ年に亡くなった人物
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- ヨハンナ・シュピリ (1901年没)
- イグネイシャス・ロヨーラ・ドネリー (1901年没)
- フレデリック・ウィリアム・ヘンリー・マイヤース (1901年没)
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同じ地域に関係する人物
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