HISTORICAL PERSON · 紀元前259没

オロンテス3世

アルメニア王で、ソフェネ王国の支配をめぐりアンティオコス2世と争った。紀元前272年に敗れて多額の貢納を課され、紀元前260年に殺害された。

生涯
紀元前259没
死亡地
ガウガメラ
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

オロンテス3世は、オロンテス朝に属するアルメニアの太守で、のちに王とも呼ばれた人物である。名はギリシア語でオロンテス、オロンタス、オロンデスなど多様に書かれ、古代ペルシア語の「アルヴァンタ」に由来する。アヴェスター語の「速い、力強い、勇敢な」を意味する語と結びつけられ、アルメニア語ではエルヴァンドと記録された。アルメニアでは同名の統治者が何人もいて、系譜は混乱しており、この時代の古代の記録も乏しいため、考古学上の発見が欠落を補っている。ルディガー・シュミットは先代の統治者の子で、さらにその前の人物の孫と考えたが、確かな情報はない。統治は紀元前317年の少し前から、紀元前260年ごろまでとされる。

アレクサンドロス大王の時代に、アルメニアの軍をミトラウステスとともに率いてガウガメラの戦いに加わったオロンテスがいるとアッリアノスとクルティウス・ルフスは伝える。シュミットはこれをオロンテス3世とみたが、キリル・トゥマノフは後世の言及から見てありえないとし、オロンテス2世のことだとした。オロンテス3世がペルシア本土の太守ペウケスタスと良好な関係にあったとディオドロスとポリュアイノスは述べ、太守として現れるのは紀元前317年の少し前である。大王はアルメニアに侵攻しなかったため、マケドニア人の支配に服して地位を認められたとも考えられる。ただし支配は東アルメニアに限られ、西アルメニアは後にカッパドキア王となる太守の支配下にあったらしい。ネムルト山には当時のアルメニアの統治者たちの碑文が知られるが、オロンテス3世に関するものは伝わっていない。

大王の死後、ペルディッカスはネオプトレモスにアルメニア進出を命じた。この遠征は、ネオプトレモスの公的な地位も明らかでなく、アルメニア人に対抗する騎兵が足りず、オロンテスの助力も得られず、兵の反乱にも見舞われて、エウメネスの助けで収拾されたという。ディアドコイ戦争が始まると、オロンテスは中立を保った。クラテロスとネオプトレモスがヘレスポントスでエウメネスに敗れた後、エウメネスはアルメニアで戦い、地域の事情に関与した。のちにアンティゴノスに敗れたエウメネスはアルメニアへ退いて兵の再編と援軍を図り、オロンテスとも連絡を取ろうとしたかもしれない。しかしアンティゴノスの騎兵に圧迫され、反乱にも妨げられたという。イプソスの戦いでアンティゴノスが死んだ後、アルメニアはセレウコス朝の宗主権を認めた。

セレウコス1世がプトレマイオス・ケラウノスに暗殺されると、後継者は地位の確保に苦しんだ。カリア戦争でエジプトの王が小アジアの広い地域を奪い、新王の不安定さはさらに増した。ディオドロスはオロンテスを「アルドアテス」の名で呼んで「王」の称号を与えており、この混乱の中で独立を得たのかもしれない。ディオドロスは、オロンテスが他の勢力の救援に兵を送り、ともに将軍アミュンタスを破ったとも述べるが、その時期は正確には分からない。そのすぐ後に、おそらく息子とみられる人物が後を継いだとされる。

別の記述では、オロンテス3世はソフェネの支配をめぐって、セレウコス朝のアンティオコス2世テオスと争い、紀元前272年に敗れて銀300タレントと馬・ラバ1,000頭の貢納を課されたとされる。紀元前260年に殺されたが、アンティオコス2世の指示によるかどうかは記録にない。息子のサメスがソフェネの統治を続け。

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