伝記
ステファヌス9世は、第154代のローマ教皇で、1057年8月2日から1058年3月29日まで在位した。洗礼名はフリードリヒといい、生年は不明である。同じ名で数えられる教皇は他にもいて、代数の数え方には歴史的な経緯があるが、教皇庁が正式に認める、1057年に即位した人物を扱う。「ステファヌス」の名を名乗った教皇としては、今なお最も新しい例である。
ロレーヌを治めたアルデンヌ=ヴェルダン家の出で、ロレーヌ公ゴツェロ1世の三男にあたる。兄にはロレーヌ公ゴドフロワ3世(髭公)がおり、もう一人の兄ゴツェロ2世は1046年に没した。妹のレジンデはナミュール伯アルベール2世に、オダはルーヴァン伯ランベール2世に、末の妹マティルデは宮中伯ハインリヒ1世に嫁いだ。一族は聖ヴァンヌ修道院と強い結びつきを持っていた。若いころはリエージュの聖ランベール司教座聖堂の参事会員となり、のちに助祭長を務めた。1049年、あるいは1051年に教皇レオ9世と会い、ローマへ招かれ、枢機卿助祭に任じられて、書記長兼司書官を務めた。この職は教皇文書の作成と発行を担うため、教皇の旅に常に随行した。レオ9世が南イタリアやドイツを巡った際も同行し、1053年のチヴィターテの戦いで、ドイツ人が多い教皇軍がノルマン人に大敗して、教皇が捕らえられる場面にも居合わせた。
1054年1月、フンベルトゥスらとともに、皇帝コンスタンティノス9世のもとへ教皇使節として派遣された。皇帝を説いて、ノルマン人との戦いに協力させるのが目的だった。皇帝には歓待されたが、総主教ミハイル・ケルラリオスらとの交渉は不調に終わり、その間にレオ9世が4月に没した。7月16日、フンベルトゥスが総主教らの破門状を聖ソフィア大聖堂の祭壇に置き、これが東西教会の決定的な分裂につながった。フリードリヒは、その三人の使節の一人であった。帰国時には多額の金を持ち帰り、皇帝ハインリヒ3世の疑いを招いたとされる。1054年11月に皇帝が次の教皇としてゲープハルトを指名し、彼は1055年4月13日にウィクトル2世として即位した。フリードリヒはその後も教皇庁の書記長を務め、モンテ・カッシーノ修道院の院長に選ばれた。
先代のウィクトル2世が、幼いハインリヒ4世の後見人として兄ゴドフロワを取り込もうとした外交の一環で、彼はカッシーノ修道院長に抜擢され、枢機卿や書記長などにも任じられた。それからわずか6週間ほどの1057年7月28日にウィクトル2世が病没すると、8月2日に新教皇として選ばれた。就任後も修道院長の職を兼ね、ペトルス・ダミアニ、フンベルトゥス、のちのグレゴリウス7世となるヒルデブランドら有能な人材の補佐を受け、グレゴリウス改革を進めた。レオ9世以来の、ノルマン人を南イタリアから追い出す努力も引き継いだ。1057年夏には、幼い皇帝ハインリヒ4世を退けて、兄ゴドフロワ3世に帝冠を授けようと図った。しかしそのころから体調を崩し、次の教皇を定めないまま、1058年3月29日にフィレンツェで没した。在位は7か月と26日であった。ローマ人に毒を盛られたともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
- ルーラッハ (スコットランド王) (1058年没)
- グリゴル・マギストロス (1058年没)
- アッ=マーワルディー (1058年没)
- ギヨーム7世 (アキテーヌ公) (1058年没)
- エルメシンダ (1058年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョヴァンニ・ファットーリ (1908年没)
- Jacopo Corsi (1602年没)
- エンツォ・サッキ (1988年没)
- チャールズ・ゴッドフリー・リーランド (1903年没)
- Guglielmo Libri Carucci dalla Sommaja (1869年没)