伝記
ヴィルヘルム・リープクネヒトは、1826年3月29日にヘッセン大公国領のギーセンで、官吏の子として生まれたドイツの政治家で、ドイツ社会民主党の創立者の一人である。カール・リープクネヒトの父にあたる。曾祖父のヨハン・ゲオルク・リープクネヒトは、ギーセン大学の数学と神学の教授であった。幼くして両親を失い、後見人となった神学者のもとで、「少し厳しすぎ、青春の楽しみからも遠ざけられた」子供時代を過ごしたと回想している。11歳のとき、親族のフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヴァイディヒが反乱を企てたかどで逮捕され、獄中で死んだ。この事件が彼に、深い、おそらく決定的な印象を与え、社会正義に目覚めさせて、民主主義運動に向かわせるきっかけになったという。1842年にギーセンのギムナジウムを首席で卒業し、ギーセン、ベルリン、マールブルクの各大学で言語学、神学、哲学を学んだ。
学生時代に政治的な急進化が始まり、ベルリンでサン=シモンらの著作に触れ、エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』を読んで、意識的な社会主義者になった。学生団体で活動し、1846年8月には学生のストライキを組織する中心となったが、報復を恐れてマールブルクに移った。社会主義の宣伝活動に加わったため大学を追われ、1847年の夏には逮捕を警告されて、アメリカ移住を計画してドイツを離れた。しかし、途中の列車でスイスのチューリヒの学校の校長と出会って教員の職を提示され、計画を捨ててチューリヒに向かった。1848年9月のバーデン一揆に参加して逮捕、投獄されたが、翌年5月に釈放されて国民軍の砲兵となった。その後、再び投獄され、釈放ののち帝国憲法闘争に参加した。スイスに亡命し、1850年2月、同志295名とともに国外追放された。
ロンドンの亡命生活に入って間もなく、カール・マルクスやエンゲルスの知遇を得て共産主義者となり、行動を共にした。亡命は13年にわたった。1862年に帰国し、新聞への寄稿で生計を立てるかたわら、労働者組合の会議に出てビスマルクの政策を攻撃し、1865年にプロイセンを追われてライプツィヒに住んだ。この年にアウグスト・ベーベルと知り合い、1866年にザクセン人民党を設立した。翌年には、ベーベルとともに北ドイツ連邦議会議員に選出された。1868年に創刊した週刊紙を拠点として、ドイツの無所属の労働組合をマルクス派に結集し、1869年8月のアイゼナハ大会で社会民主労働党の創立を決定させた。
1874年から没年まで帝国議会の議員を務め、普仏戦争ではアルザス=ロレーヌの併合に反対して投獄されるなど、ビスマルク政府との対峙を続けた。1875年のラッサール派との合同については、マルクスに批判されたが、一貫してマルクスの忠実な弟子という姿勢を崩さなかった。1890年の社会主義者弾圧法の廃止と同時にベルリンに移り、党中央機関紙『前進』の主筆になった。1898年からはベルンシュタインの修正主義と闘い、その最中、ベルリン近郊のシャルロッテンブルクで、1900年8月7日に没した。マルクスは彼の「機転の利かなさと乱暴な放言」を指摘していたが、議会ではなく戦場における実力行使が運命を決すると考えた彼と、妥協に向いたベーベルは、互いに補いあって、ドイツ社会民主党を大衆政党にする基盤を造った。
同じ年に亡くなった人物
- ヴィルヘルム・ライブル (1900年没)
- アレクサンドル・ファルギエール (1900年没)
- イヴァン・アイヴァゾフスキー (1900年没)
- ジョン・アンダーソン (動物学者) (1900年没)
- ジェームズ・ルーズベルト1世 (1900年没)
同じ地域に関係する人物
- ハインリヒ・ダレスト (1875年没)
- ユリウス・ファルケンシュタイン (俳優) (1933年没)
- ヨハン・グスタフ・ドロイゼン (1884年没)
- カール・ハリース (1923年没)
- レオ・ブレッヒ (1958年没)