HISTORICAL PERSON · 1900年没

イヴァン・アイヴァゾフスキー

クリミアのフェオドシヤ生まれの海洋画の巨匠で、6000点以上の作品を残したアルメニア系の画家。『第九の波』で知られ、オスマン帝国のスルタンやロシア海軍から作品を委嘱され、故郷にギャラリーを設立した。

生涯
1900年没
死亡地
ウクライナ(クリミア自治共和国 / フェオドシヤ)
出生地
ウクライナ(フェオドシヤ)
出典
世界地図
ウクライナ(クリミア自治共和国)

伝記

イヴァン・コンスタンチノヴィチ・アイヴァゾフスキーは、1817年7月29日、ロシア帝国タヴリダ県のフェオドシヤ(現在のクリミア)で、貧しいアルメニア人商人の家に生まれた画家である。アルメニア名はホヴァネス・アイヴァジヤーンで、民族的にはアルメニア人であり、ウクライナの画家としても認識されている。家族は1812年にガリツィアからクリミアに移住しており、祖先はオスマン帝国支配下の西アルメニアの出身だった。幼いころから絵の才能を示し、10歳で街のコーヒー店で働きながら、壁に炭で絵を描いていた。この才能を地元の建築家ヤコフ・コフが認め、最初の鉛筆と紙を与えた。コフの紹介でフェオドシヤの市長アレクサンドル・カズナチェエフに見いだされ、シンフェロポリのギムナジウムに入学した。

1833年から1837年までペテルブルクの美術アカデミーで学び、風景画家、フランス人の海洋画家、戦闘画家に師事した。カルル・ブリューロフの影響も受け、1837年に金メダルを得て卒業した。初期の海洋画や風景画で得た賞金でクリミアに戻り、黒海沿岸で肖像画家として活動した。1840年にはローマ、ナポリ、ソレント、ヴェネツィア、パリ、ロンドン、アムステルダムを巡るヨーロッパ旅行を行って、技術を磨いた。1844年にペテルブルク美術アカデミーの院士に選ばれ、ロシア海軍からも長年にわたり海洋画を委嘱された。

1845年にはオスマン帝国のスルタン、アブデュルメジト1世に招かれてイスタンブールを訪れた。以後1890年までに計8回同市を訪れ、アブデュルアズィズやアブデュルハミト2世ら歴代のスルタンからも作品の注文を受けた。30点以上がドルマバフチェ宮殿に展示されている。アムステルダム、ローマ、パリ、フィレンツェ、シュトゥットガルトの美術アカデミーの名誉会員にもなり、1887年にはペテルブルクのアカデミーの名誉会員に選ばれた。ロマン主義の初期作品から後期のリアリズム的な表現まで幅広いスタイルで活躍し、海洋画に加え、戦闘画、肖像画、宗教画、神話画、動物画、ウクライナやクリミアの風景画も手がけた。劇的な光と動きで知られ、1850年の『第九の波』はロマン主義の象徴として国際的に評価される。ほかに『虹』(1873年)、『黒海』(1881年)、晩年の大作『波の間で』(1898年)などがあり、残した作品は6000点を超え、大半が海をテーマとする。画家のクラムスコイは彼を「第一級の星」と評した。チェーホフは彼を「親しみやすいアルメニア人と欲深い主教の融合」と形容した。

晩年はフェオドシヤに定住し、自邸とアトリエを拠点に創作を続けた。1880年にフェオドシヤ絵画ギャラリーを設立し、美術学校や考古学博物館を開き、水道・鉄道・港の建設資金も提供して、故郷の発展に貢献した。兄ガブリエルはアルメニア使徒教会の司教で歴史家だった。アイヴァゾフスキー自身、作品にアルメニア文字で本名を記入し、アルメニア人としてのアイデンティティを保った。1900年5月2日、フェオドシヤで死去する直前まで、絵画『トルコ船の爆発』を制作していた。ロシアの画家のなかで最も贋作が多いともいわれる。

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