HISTORICAL PERSON · 1900年没

フリードリヒ・マックス・ミュラー

ドイツ生まれでイギリスに帰化したインド学者・比較言語学者。サンスクリット文献学や比較宗教学、仏教学などの分野で活躍した。

生涯
1900年没
死亡地
イギリス連邦(オックスフォードシャー / オックスフォード)
出生地
ドイツ連邦共和国(デッサウ)
出典
世界地図
イギリス連邦(オックスフォードシャー)

伝記

フリードリヒ・マックス・ミュラーは、1823年12月6日にドイツのデッサウで生まれ、のちにイギリスに帰化したインド学者であり、東洋学者、比較言語学者、比較宗教学者である。「フリードリヒ・マックス」という名は、母方の兄弟フリードリヒと、名付け親となった作曲家ウェーバーのオペラ『魔弾の射手』の主人公マックスから取られた。父ヴィルヘルムは詩人で、シューベルトが曲をつけた『美しき水車小屋の娘』『冬の旅』の作詞者として知られる。母はアンハルト=デッサウの首相の長女であった。ミュラーが4歳のときに父が亡くなった。父の影響で詩や音楽に関心を持ち、6歳でデッサウのギムナジウムに入り、1839年にはライプツィヒのニコライ学校に移って、音楽と古典を学び続けた。知人だったメンデルスゾーンは、別の進路を勧めたという。

1841年にライプツィヒ大学で文献学を学び、詩や音楽への早い関心を離れて、1843年、20歳で哲学博士号を取得した。さらにベルリン大学でサンスクリット学者フランツ・ボップや哲学者シェリングの下で学び、フランクフルトではショーペンハウアーにも会っている。最も影響を受けたのは、1845年にパリで師事したウジェーヌ・ビュルヌフである。ミュラーは、ビュルヌフの勧めで『リグ・ヴェーダ』の校訂に取り組み、以後、文献学者としてサンスクリット文献の校訂と翻訳につとめた。1848年には、駐英大使ブンゼンによってイギリスに招かれた。ブンゼンは、東インド会社の援助で『リグ・ヴェーダ』の校訂と翻訳を行う人物として、ミュラーに白羽の矢を立てたのである。

1849年に『リグ・ヴェーダ・サンヒター』全6巻の刊行が始まり、1873年に完結した。1850年にオックスフォード大学の教授となり、1854年には現代諸語のタイラー講座の教授となった。1858年にはオール・ソウルズ・カレッジのフェローとなった。1860年、サンスクリットのボーデン講座教授の地位をモニエル=ウィリアムズと争って敗れたが、1868年には、ミュラーのために比較文献学の講座が開設された。1870年の講義では、ダーウィンの進化論に対し、人間と動物は言語によって明白に隔てられていると強調した。1875年に大学を定年退官したが、教授職号は死去するまで保った。1879年には『東方聖典叢書』全50巻の刊行を始め、1894年に完結させた。1881年にはカントの『純粋理性批判』を翻訳して、従来の翻訳の誤りを正した。

神話の研究では、神話は「言語の病」によって生じたと主張し、インド神話とギリシア神話の固有名の間に対応関係を見いだして、印欧語族の神話を太陽神話として読み解くことを提唱した。この学説はのちに儀礼を重視する研究者たちに取って代わられたが、一時は一学派を形成し、神話学の隆盛に火をつけた。仏教については、当時一般的だった仏教はニヒリズムだとする図式を否定し、仏陀と仏教を擁護した。日本からは、1876年に渡英した南條文雄がオックスフォードで彼に師事し、近代的な仏教研究の手法を日本に伝えた。1900年10月28日、イギリスに渡って以来住み続けたオックスフォードで死去した。2万冊にも及ぶ彼の蔵書は東京帝国大学へ寄贈されたが、1923年の関東大震災で焼失した。

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