伝記
ジョージ・バークリーは、1685年3月12日に生まれ、1753年1月14日に没したアイルランドの哲学者で聖職者である。バークレー、バークリとも表記される。主著は『人知原理論』で、「存在することは知覚されることである」という基本原則を提唱したとされ、非物質論の創始者と見なされる。ショーペンハウアーは彼を「観念論の父」と呼んだ。
キルケニー州トマスタウン近くの生家で、軍人ウィリアムの長男、六人兄弟の最年長として生まれた。母についてはほとんど分からない。キルケニー大学で学んだのち、ダブリンのトリニティ・カレッジに進み、1707年に修士号を得て、フェローとして大学に残った。大学では図書館員、ギリシア語の講師、説教者を務めた。最初の著作は数学に関するものだったが、世に知られるきっかけとなったのは、1709年に刊行した『視覚新論』である。そこで彼は、視覚の距離、大きさ、位置などの問題を検討し、視覚に固有の対象は物質ではなく光と色だと論じた。当時は大きな論争を呼んだが、結論は今では光学理論の確立した一部として受け入れられている。1710年には司祭に叙されたが、ダブリン大主教に相談がなかったため、訴訟になった。
1710年に刊行した『人知原理論』は、すべての観念や知識は人間が経験を通じて形成するというロックの経験論を受け継ぎつつ、物質を実体として認めず、事物は観念の束にすぎないとした。この書は大きな成功を収めたが、その説を受け入れる者は少なかった。世界は観念であり、たとえば目の前の机を叩いて硬さを認識しても、それは机自体ではなく知覚を認識しているにすぎないというのである。この考えは主観的観念論、独我論と批判された。彼は感覚的な観念の原因は神にあるとして、知覚する精神と神だけを実体と認めた。聖職者である彼にとって、魂の不滅と神の存在を結びつけることが必要であり、物質を実体とすることは唯物論的な無神論に結びつくと考えたのである。批判を受けた彼は、自説を対話の形に書き直し、1713年に『ハイラスとフィロナスの三つの対話』として刊行した。素朴実在論的なハイラスに、彼の代弁者であるフィロナスが反論する形で、当時優勢だった唯物論と戦うことが主な目的であった。彼は抽象観念の存在も否定した。
ニュートンの絶対空間・絶対時間・運動の説にも反対し、1721年に『運動論』を書いた。1721年にトリニティ・カレッジで神学博士号を得て、1728年に結婚した直後、アメリカの新大陸に神学校を作るためロードアイランドのミドルタウンに移住した。しかし資金が十分に集まらず、1732年に帰国した。同年に自由思想家に対するキリスト教弁証論『アルシフロン』を出し、1734年にはニュートンの流率法(微積分学)を厳密な数学ではないと退けた『アナリスト』を発表して、数学の発展にも影響を与えた。同じ1734年に、アイルランド国教会のクロインの主教に叙任された。1753年にオックスフォードで没し、クライスト・チャーチ大聖堂に葬られた。その思想はヒュームやカントなど後の思想家に深い影響を与えたとされる。カリフォルニア州バークレー市とカリフォルニア大学バークレー校の名は、彼にちなむ。
同じ年に亡くなった人物
- ジョヴァンニ・リストーリ (1753年)
- ジュゼッペ・ヴァレンティーニ (1753年没)
- Franciszka Urszula Wisniowiecka (1753年没)
- ベルトラン=フランソワ・マエ・ド・ラ・ブルドネ (1753年)
- ゲオルク・ヴェンツェスラウス・フォン・クノーベルスドルフ (1753年)
同じ地域に関係する人物
- コフィ・ブシア (1978年没)
- ピーター・フレデリック・ストローソン (2006年没)
- バーナード・パイン・グレンフェル (1926年没)
- ウィリアム・マーシャル (初代ペンブルック伯) (1219年没)
- リチャード・アダムス (2016年没)