伝記
ボードゥアン1世は、1930年9月7日、ブリュッセル北部ラーケンのステュイヴェンベルグ城に生まれた、第5代ベルギー国王である。在位は1951年から1993年。父は、のちに国王となるブラバント公レオポルド3世、母は、スウェーデンの王女アストリッドで、その長男、第2子として生まれた。姉に、のちのルクセンブルク大公妃ジョゼフィーヌ=シャルロット、弟に、第6代国王アルベール2世がいる。1934年、祖父の国王アルベール1世が、ロッククライミングの事故で亡くなり、父が王位につき、3歳のボードゥアンは、王位継承者のブラバント公となった。1935年には、スイスで、レオポルド3世の運転していた自動車の事故で、母アストリッドが亡くなった。7歳から教育が始まり、家庭教師が、授業の半分をフランス語、半分をオランダ語で教えた。父に付き添って、式典に参加することも多く、国民によく知られた。
1940年5月10日、ベルギーがナチス・ドイツに侵攻されると、レオポルド3世は捕虜として、ラーケンに軟禁された。ボードゥアンと姉、弟は、安全のためにフランス、次いでスペインへ送られたが、8月に帰国した。1944年6月のノルマンディー上陸作戦の直後、国王夫妻と子供たちは、ドイツのヒルシュタイン、次いでオーストリアに強制的に移され、1945年5月に、アメリカ軍に釈放された。ただ、父の1940年の降伏などが、ナチスへの協力かどうかをめぐる「王室問題」があったため、一家はベルギーに戻れなかった。戦後は、王弟のシャルル王子が摂政を務め、王室はスイスで暮らした。ボードゥアンは、ジュネーブの中等学校で教育を続け、1948年にはアメリカを訪れた。
1950年の国民投票で、レオポルド3世の復帰に賛成する票が多数を占め、父は帰国したが、反国王派の抗議は収まらなかった。そのため、ボードゥアンは、1950年8月11日から翌年7月16日まで、摂政として国政を担った。父の退位により、1951年7月17日、第5代国王に即位した。1960年6月30日には、ベルギーの植民地だったコンゴの独立が宣言された。式典でボードゥアンが行った挨拶は、コンゴ自由国を創設して、非人道的な統治を行い、非難された祖父の叔父レオポルド2世を、「天才」と呼び、独立をベルギーによる「文明化の集大成」と表現して、「性急な変更は将来を危うくする」と忠告までした。コンゴの初代首相ルムンバは、植民地支配の殺害や侮辱、奴隷としての苦しみを挙げて、厳しく批判する演説で応じた。1960年12月15日、スペインのカーサ・リエラ侯爵の三女ファビオラ・デ・モラ・イ・アラゴンと結婚した。子供は授からなかった。
1990年に、議会が妊娠中絶法案を可決し、国王に署名を求めたが、敬虔なカトリック教徒であったため、署名を拒んだ。署名を拒めば立憲君主制の原則を揺るがすため、内閣は協議を行い、ボードゥアンを一時的に「統治不能」の状態にして、その間に、内閣が代わって署名することとした。1990年4月3日から、法案が成立した5日まで、統治不能状態に置かれた。1993年7月31日、スペイン南部モトリルに滞在中、心不全で崩御した。弟のアルベールが王位を継いだ。葬儀は8月7日に、ブリュッセルの大聖堂で国葬として行われ、墓所は、ラーケンの教会の王室納骨堂にある。1995年には、エゼル競技場が改装され、ボードゥアン国王競技場と改名された。2024年、ローマ教皇庁は列福調査を開始し、「神のしもべ」の称号を与えた。
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