伝記
ラオディケ1世は、紀元前3世紀にセレウコス朝の王アンティオコス2世テオスの最初の妻となった、アナトリアのギリシア系貴族の女性である。生年は不明で、若いころのこともほとんど知られていない。名はギリシア語で「民の正義」を意味するとされる。
父はアナトリアに所領をもつ富裕な貴族アカイオスで、セレウコス1世ニカトルと最初の妻アパマ1世の次男にあたる。母の名は伝わらない。妹にアンティオキスがいて、のちのペルガモンのアッタロス1世の母となった。ラオディケという名は、父方の叔母と父方の曽祖母に由来し、セレウコス家との強い結びつきを示している。彼女は父方のいとこにあたるアンティオコス2世と、紀元前266年より前に結婚した。まだ夫が王位継承者ではなかったころの結婚である。紀元前261年に叔父のアンティオコス1世ソテルが没すると夫が王位を継ぎ、彼女はセレウコス朝の王妃となった。二人のあいだにはセレウコス2世カリニコスとアンティオコス・ヒエラクスの二人の息子、アパマ、カッパドキアのストラトニケ、ラオディケの三人の娘が生まれた。
紀元前252年、第二次シリア戦争ののち、アンティオコス2世はエジプトのプトレマイオス2世フィラデルフォスと和平を結ぶことを迫られた。その条件として、ラオディケと離婚し、プトレマイオス2世の娘ベレニケと結婚した。二人のあいだに生まれる子が王位を継ぐという了解があったとされる。王妃の座を失っても、ラオディケは有力で政治的影響力のある人物であり続けた。離婚の取り決めで、アンティオコスは彼女にアナトリア各地の土地を与えた。これは碑文から知られ、ヘレスポントスの大きな所領のほか、キュジコス、イリオン、カリアの近くにも所領があった。土地を売却または寄進する権利が認められ、ある時には財産税の全面的な免除も与えられた。サルディスの王の記録には、彼女の土地の権利が王領として扱われ、授与や売却の対象になると記されている。土地の再配分や区画の変更を命じられるのは王だけだった。彼女は所領から毎年の農産物の収入などを得ていた。
ベレニケとの結婚中、夫妻には息子アンティオコスが生まれた。ラオディケはエフェソスで暮らしていた。紀元前246年1月28日にプトレマイオス2世が没してプトレマイオス3世エウエルゲテスが継ぐと、アンティオコス2世は第二の家族をアンティオキアに残してラオディケのもとへ戻り、彼女との長男を後継者に指名した。同年7月、アンティオコス2世が没した。復讐に燃えたラオディケが毒を盛ったとする説もある。王位はセレウコス2世が継ぎ、弟のヒエラクスはサルディスで共同統治者とされ、二人はエフェソスで母とともに暮らした。ラオディケは、復讐のためとも内戦を防ぐためともいわれるが、同年の夏の終わりごろにベレニケとその息子を殺害させた。
怒ったベレニケの兄プトレマイオス3世は、この年のうちに宣戦してセレウコス朝に攻め込んだ。これが第三次シリア戦争で、「ラオディケ戦争」とも呼ばれる。戦争のさなか、セレウコス2世がプトレマイオスと戦っている間に、ラオディケは次男ヒエラクスが兄に対して起こした反乱を支持した。紀元前244年のことで、以後17年にわたる兄弟の内戦となった。最終的にはプトレマイオスに捕らえられて殺されたとされる。バビロンには紀元前247年と237年の日付をもつ彼女への顕彰碑文が二つあるため、その死は紀元前236年より早くはないと考えられている。
同じ年に亡くなった人物
- ガイウス・クラウディウス・ネロ (紀元前 260年(推定))
- クィントゥス・ミヌキウス・ルフス (紀元前 260年(推定))
- チモカリス (紀元前260年没)
- ルキウス・マンリウス・アキディヌス・フルウィアヌス (紀元前 260年(推定))
- Satyrus the Peripatetic (紀元前260)
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