伝記
ラウール・グラベール(ロドゥルフス・グラベル)は、11世紀のベネディクト会の修道士で年代記作者である。985年ごろブルゴーニュに生まれ、1047年ごろに没した。「グラベール」は「禿げた者」を意味するともされる。千年紀の転換期にあたるフランスについて、不正確さはあるものの最も重要な情報源の一つとなる書物を残した人物である。
出生は、ある聖職者の二重に不義な関係によるものとされ、本人は「罪のうちに両親に宿された」と告白している。子どもの頃は気難しく反抗的で、自分の振る舞いを忌まわしく耐えがたいものだったと語っている。修道士だった叔父に12歳でサン=レジェ=ド=シャンポー修道院へ入れられたが、傲慢さから上長に従わず、兄弟たちと争ったために追い出された。その後も不服従や落ち着きのなさ、率直な物言いのために、共同体から共同体へと移り歩いた。ムティエ=サン=ジャン修道院を経て、1010年ごろにはディジョンに近いサン=ベニーニュ修道院に入り、ここで北イタリア出身の改革派の修道院長ギヨーム・ド・ヴォルピアーノと出会った。1028年にはヴォルピアーノに伴われてイタリアへ旅している。
ヴォルピアーノに勧められて書き始めたのが、主著『歴史五巻』である。900年から1044年までを扱い、クリュニー修道院長オディロに献じられた。執筆はクリュニーで1026年ごろ、あるいは1030年代に始まり、のちにオーセールのサン=ジェルマン修道院で完成したとされる。もとは教会史として構想され、記述はフランス中央部の出来事を中心にしながら、ときにスコットランドや南イタリアにまで及ぶ。教会改革を支持する皇帝ハインリヒ2世・3世やフランス王ロベール2世には好意的で、コンラート2世や教皇ベネディクトゥス9世には批判的であった。また、聖墳墓聖堂がファーティマ朝のカリフによって破壊された知らせを受けて、その原因をユダヤ人に帰した。その結果、リモージュなど多くの町でユダヤ人が追放され、あるいは殺されたとされる。
もう一つの著作は、ヴォルピアーノの没後、おそらく1031年ごろに書かれた伝記である。遍歴の足取りには異説も多い。ベーズのサン=ピエール修道院に1025年にいたとも、1031年にクリュニーでオディロを保護者としたともいわれ、オディロが放浪する修道士をクリュニーに落ち着かせたと語られる。オーセールのサン=ジェルマン修道院には、1031年に移ったとも、1039年から住んだともされる。そこでは修道士たちに頼まれて、教会の多くの祭壇や聖人の墓の銘文を修復し、あるいは作った。それが終わると再び放浪が始まり、クリュニーへ向かったという。没した場所はオーセール(より有力とされる)とも、クリュニーともいわれる。
『歴史』には逸話や教訓的な幻視が混じり、迷信的でもあるが、当時の人々の心性を知る貴重な記録とされる。キリストの死と復活から千年にあたる1033年を一巻で描き、終末論的な視点から時代を語った。「神の平和」についても多くの情報を伝える。歴史家ジョルジュ・デュビーは、世の中で動くあらゆるものに惹かれ、機会があれば旅に出て、よく聞き、よく見る人物で、旧来の秩序が揺らぐ世界の優れた証人だと評した。一方で噂から全体像を作り上げて事実をゆがめたことも指摘される。著作は1596年、ピエール・ピトゥーの所蔵する写本から、十一の中世年代記の集成の一部として初めて刊行された。
同じ年に亡くなった人物
- ハインリヒ7世 (バイエルン公) (1047年没)
- クレメンス2世 (ローマ教皇) (1047年没)
- マグヌス1世 (ノルウェー王) (1047年没)
- オットー2世 (シュヴァーベン大公) (1047年没)
同じ地域に関係する人物
- Columba of Sens (273年没)
- エティエンヌ・ジルソン (1978年没)
- ジャック・アミヨ (1593年没)
- ジュール・ロワ (2000年没)
- ウード4世 (ブルゴーニュ公) (1350年没)