伝記
オットー2世は、エッツォ家に属し、ロートリンゲン宮中伯(1034年から1045年)を経てシュヴァーベン公(1045年から1047年)となった人物である。1047年9月7日に没した。生年は不明で、995年ごろとされる。
父はロートリンゲン宮中伯エッツォ、母は皇帝オットー2世と皇后テオファヌの娘マティルデである。兄ルードルフ(リウドルフ)は1031年にすでに世を去っていた。弟のヘルマン2世は1036年にケルン大司教となり、皇帝ハインリヒ3世とロートリンゲン公ゴットフリート3世の争いでは、ハインリヒ3世を支持した。姉妹のリヒェンツァは1013年にポーランド王ミェシュコ2世に嫁いでいる。
1034年に父エッツォが没すると、オットーは父の跡を継いでロートリンゲン宮中伯となり、ダイツおよびライン地方のアウエルガウの伯も受け継いだ。両親が創建したケルン近郊のブラウヴァイラー修道院の守護者(フォークト)も務めた。ゴットフリート3世との対立では、ザーリア家の国王ハインリヒ3世に忠実に従い続けた。
その報いとして、1045年4月7日、ゴスラーでハインリヒ3世は自身が保持していたシュヴァーベン公位をオットーに与えた。先代のシュヴァーベン公ヘルマン4世が早く亡くなった後、国王が自らこの公位を押さえていたのである。引き換えにオットーはロートリンゲン宮中伯の位を従兄弟のハインリヒ1世に譲った。また、ライン川中流の要衝で自分の領地であったカイザースヴェルトとデュイスブルクも王権に譲り渡された。結婚については、エギスハイム伯フーゴ6世の娘を妻としたとされる。別の記述ではノルトガウ伯フーゴの娘とされ、近年はそもそもオットーの婚姻関係そのものに疑問も出されている。子として、リヒェンツァ(1025年ごろから1083年)は、最初にヴェルル伯ヘルマン3世と、のちにバイエルン公オットー・フォン・ノルトハイムと結婚したという。もう一人の娘ヒルデガルトはビューレンのフリードリヒと結婚し、のちのシュヴァーベン公フリードリヒ1世の両親になったとされる。
1047年、オットーは自らの城トンブルク城で突然亡くなった。フランドル伯ボードゥアン5世やホラント伯ディルク4世の軍勢の侵攻に対する皇帝の遠征の準備をしている最中だった。遺体はブラウヴァイラー修道院に葬られ、その儀式は義兄弟にあたるトゥール司教ブルーノ、のちの教皇レオ9世が執り行ったとされる。翌1048年、皇帝はオットー・フォン・シュヴァインフルトを後任のシュヴァーベン公に任じた。
同じ年に亡くなった人物
- マグヌス1世 (ノルウェー王) (1047年没)
- ルドルフス・グラベル (1047年没)
- ハインリヒ7世 (バイエルン公) (1047年没)
- クレメンス2世 (ローマ教皇) (1047年没)
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