伝記
フレデリック・ショパンは、ポーランド出身で前期ロマン派を代表する作曲家であり、当時のヨーロッパでピアニストとしても名高かった。生年月日には異説があり、本人や家族は1810年3月1日と主張したが、1892年に見つかった教区の洗礼記録には2月22日とあり、1809年説もある。生地はワルシャワの西約46キロにあるジェラゾヴァ・ヴォラ村とされる。
父ニコラはロレーヌ出身のフランス人で、16歳でポーランドに移り住んだ。1794年のコシチュシュコの蜂起には市民兵として加わり、ポーランド風にミコワイと名乗って、自分をポーランド人と考えて疑わなかったという。フランス語に堪能な家庭教師として貴族の家に出入りし、そこで侍女をしていたユスティナと結婚した。ショパンは夫妻の二番目の子で、生後7か月の頃に一家はワルシャワへ移り、父は中等学校でフランス語を教えた。家庭には両親の営む寄宿塾の少年たちが暮らし、母はピアノに長けて、父もフルートとヴァイオリンを奏でた。最初にピアノを教えたのは姉のルドヴィカで、1816年から約6年は、チェコ人のヴォイチェフ・ジヴヌィに本格的に学んだ。師の実力はすぐに追い抜かれたが、ショパンは後年までこの師を高く評価した。7歳で『ポロネーズ ト短調』を作曲して出版し、公開演奏も重ねて、神童モーツァルトやベートーヴェンと比較された。11歳のときにはロシア皇帝アレクサンドル1世の前で演奏したとも伝えられる。
1823年から中等学校に通い、1826年にはワルシャワ音楽院に進んで、ユゼフ・エルスネルのもとで音楽理論や通奏低音、作曲を学んだ。エルスネルは通知表に「音楽の天才」と記し、古い規則で縛らず、才能が自ら伸びるに任せたという。休暇にはシャファルニャ村などを訪れて民謡に触れ、その経験はのちの作品に形を変えて現れた。1829年に音楽院を首席で卒業し、ウィーンで演奏会を開いたが、街はヨハン・シュトラウス1世とランナーの「ワルツ合戦」で沸いており、さほど注目を集められなかった。1830年にワルシャワを離れてウィーンへ向かい、翌1831年にパリへ移った。1832年2月26日にパリで初の演奏会を開いている。
1836年にはマリア・ヴォジンスカに求婚したが、婚約は翌年に破棄された。同じ年、作家ジョルジュ・サンドと出会っている。1838年に交際が始まり、マヨルカ島に滞在した。1839年からは冬をパリで、夏をサンドの別荘のあるノアンで過ごす暮らしが続いたが、1847年に二人は別れた。1844年の冬にはインフルエンザにかかり、1848年2月16日にパリで最後の演奏会を開き、その後イギリスへ演奏旅行に出た。1849年に姉ルドヴィカと最後に再会し、10月17日に没した。肖像画の記録や妹と父の死因から、結核を患っていたと考えられている。
作品のほとんどはピアノ独奏曲で、夜想曲やワルツなどは今日も広く知られる。半音階的な和声や美しい旋律でピアノの表現を広げ、「ピアノの詩人」とも呼ばれた。強い愛国心を持ちつつ、父の出身国フランスでの活動も長く、ワルシャワの空港は「ワルシャワ・ショパン空港」と名づけられている。
同じ年に亡くなった人物
- ディオニシオ・アグアド (1849年没)
- デルフィーン・ラローリー (1849年没)
- マリア・エッジワース (1849年没)
- フランソワ・アントワーヌ・アブネック (1849年没)
- アン・ブロンテ (1849年没)
同じ地域に関係する人物
- ダニロ・キシュ (1989年没)
- ジョルジュ・バランディエ (2016年没)
- オーギュスト・コント (1857年没)
- ルイ17世 (1795年没)
- テオドール・デュボワ (1924年没)