HISTORICAL PERSON · 1898年没

ウィリアム・グラッドストン

イギリスの政治家で、自由党を指導して4度首相を務めた。保守党から出発したがピール派に属して離党し、蔵相として関税の削減・廃止を進め自由貿易体制を完成させた。好敵手ディズレーリと政党政治を代表した。

生涯
1898年没
死亡地
イギリス連邦(フリントシャー / ハワーデン城)
出生地
イギリス連邦(リヴァプール)
出典
世界地図
イギリス連邦(フリントシャー)

伝記

ウィリアム・ユワート・グラッドストンは、1809年12月29日にリヴァプールで生まれ、1898年5月19日に没したイギリスの政治家である。ヴィクトリア朝中期から後期にかけて自由党を指導し、4度首相を務めた(1868年-1874年、1880年-1885年、1886年、1892年-1894年)。敬虔な国教徒で、キリスト教の精神を政治に反映させることを目指し、保守党党首ディズレーリとともに、当時の政党政治を代表する人物である。スコットランド豪族の末裔で、父ジョンは大富豪の貿易商であった。父は東インド貿易で成功し、西インドやギアナで大農場を経営し、1818年から1827年まで庶民院議員も務めた。しかしその農場では大勢の奴隷が酷使されており、1823年にギアナで起きた黒人奴隷の一揆は、グラッドストン家の農場を中心としていた。ウィリアムは四男で、家には自由な討論を重んじる家風があり、本人は、そのおかげで議論好きになったと述べている。

1821年9月、11歳でイートン校に入学し、この時代を「私の人生の中で最も幸福だった時代」と回想した。読書に熱心で、ギリシャ・ローマの古典や、ロック、バーク、ヒューム、ミルトンなどを読んだ。1825年に友人たちとイートン校の弁論会を復興し、15歳で「下層民に教育を与えるべきか」を論じて、ノブレス・オブリージュ的な思想を既に示した。1827年12月の卒業にあたり、校壁に「庶民院議員閣下」と未来の自分の姿を落書きしたという。1828年10月にオックスフォード大学クライスト・チャーチに進み、1831年に首席で卒業した。1832年に23歳で保守党の庶民院議員となり、ピール内閣で下級大蔵卿、商務庁長官、陸軍・植民地大臣などを歴任して、関税の削減・廃止による自由貿易の推進に貢献した。

1846年の穀物法廃止をめぐって保守党が分裂すると、ピール派に属して離党した。1850年に両シチリア王国で自由主義への弾圧を目の当たりにして、保守主義への嫌悪を強めた。1852年にはディズレーリの予算案を徹底的に論破して否決に追い込み、アバディーン内閣では大蔵大臣を務めて多くの品目の関税を廃止した。1859年に自由党が結成されると、自由党議員となり、パーマストン内閣の大蔵大臣として自由貿易体制を完成させ、「知識に対する税金」と批判された紙税も廃止した。1867年末に、引退したラッセルの後継として自由党党首となり、1868年の総選挙に勝利して第一次内閣を組閣した。アイルランド国教会の廃止、小学校教育の普及、官庁の採用試験の導入、軍の階級買い取り制度の廃止、秘密投票制度の導入、労働組合法の制定などを実施したが、外交は不得手で、1874年の総選挙でディズレーリ率いる保守党に敗れた。

1875年に党首を辞して半ば引退したが、バルカン半島の騒乱でディズレーリ政権の外交を批判する運動の先頭に立ち、活動を再開した。1880年の総選挙で自由党が大勝し、第二次内閣を組閣した。アイルランド土地法を改正して小作農を保護し、第三次選挙法改正で男子普通選挙に近い状態を実現した。小英国主義者で帝国主義に消極的だったが、エジプトには派兵した。スーダンの撤退を指揮させたゴードン将軍が戦死すると、内閣支持率に大きな打撃を受けた。1886年の第三次内閣ではアイルランド自治法案を通そうとしたが、党内の反自治派が離党して否決された。1892年に第四次内閣を組閣して再び法案を提出したが、貴族院で否決され、海軍増強に反対して閣内で孤立し、1894年に首相職を辞して政界から引退した。

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