伝記
ペイトンは、ピトンとも呼ばれるマケドニアの将軍で、アレクサンドロス3世に仕えたディアドコイの一人である。紀元前355年頃に生まれ、紀元前316年に没した。クラテロス(大王に仕えた同名の将軍とは別人)の子で、マケドニア西部、エオルダイアの貴族の出とされる。
アレクサンドロスの東征には側近護衛官として加わったが、さほど目立った働きはなかった。大王が彼の野心を警戒していたためか、重要な軍の指揮権は得なかったともいわれる。紀元前328年頃にはスピタメネスの率いる反乱軍に部隊ごと捕らえられたとされる。インドでは33人いた三段櫂船艤装奉仕者の一人となり、紀元前325年には反乱を起こしたシンド地方の整備を大王から任された。紀元前327年頃には下インダス地方の軍の指揮も得たとされる。紀元前323年6月、大王が病に倒れた酒宴にも仲間の一人として列していた。大王の臨終のときには、他の将軍たちとともにサラピス神殿に参籠して神託を仰いだ。
大王の死後のバビロン会議で、ペイトンはメディア太守に任じられた。メディアは東西の通行を抑える要地だったが、一人で治めるには広すぎるため、北部はアトロパテスに渡されて、メディア・アトロパテネと呼ばれるようになった。同じ年、バクトリアに入植したギリシア人が、僻地に留まるのを嫌って反乱を起こした。摂政ペルディッカスの命で鎮圧に向かったペイトンは、歩兵12000と騎兵3000の反乱軍を破った。このとき、上アジアへ戻るのを嫌がるマケドニア人がくじで選ばれて彼の指揮下に入り、東方の太守領の兵も加わったという。ペルディッカスは皆殺しを命じていたが、ペイトンは彼らを自分の勢力に組み込もうと考えて降伏を認めた。ところが兵士たちはペルディッカスに約束された戦利品を求めて反乱者を虐殺し、目論見は外れた。
紀元前321年、ペルディッカスのエジプト遠征に加わったが、ナイル川の渡河に失敗したペルディッカスを見限り、セレウコスやアンティゲネスらとともに暗殺した。エジプト太守プトレマイオスはペイトンとアリダイオスを新摂政に推したが、トリパラディソスの軍会でエウリュディケの反対を受けて実現せず、摂政の座はアンティパトロスのものになった。ペイトンはメディア太守の地位を保った。プトレマイオスは、アンティパトロスが到着するまで二人の王、フィリッポス3世とアレクサンドロス4世の保護もペイトンに託したとされる。その後、高地の太守領で勢力を広げようとして、弟のエウダモスを太守に据えるためパルティア太守ピリッポスを殺害した。紀元前317年、同じ運命をたどることを恐れたペウケスタス率いる東方太守連合軍に敗れ、セレウコスのもとへ逃れた。
エウメネスはセレウコスとペイトンに同盟を持ちかけたが、二人はこれを退けた。エウメネスがマケドニア人の集会で死刑を宣告されていたためである。ペイトンはセレウコスとともにアンティゴノスと手を結び、エウメネスやペウケスタスと戦った。アンティゴノスの副将のような地位にあって、しばしば大きな指揮権を託され、パラエタケネとガビエネの会戦ではともに左翼の騎兵部隊を指揮した。エウメネスの死後、ペイトンは高地アジアの支配への野心をあらわにし、アンティゴノスに対して戦いを始めようとした。警戒したアンティゴノスは、気づかぬふりをしてペイトンを冬営地のエクバタナに招き、捕らえて処刑した。紀元前316年のことである。
同じ年に亡くなった人物
- オリュンピアス (紀元前316年没)
- カルディアのエウメネス (紀元前316年没)
- アンティゲネス (紀元前316年没)
- エウダモス (太守) (紀元前316年没)
- ミトレネス (紀元前 316年)
同じ地域に関係する人物
- カンビュセス2世 (紀元前522年没)
- アーレフ・ガズヴィーニー (1933年没)
- トゥグリル2世 (1134年没)
- パルメニオン (紀元前330年没)
- マスウード (イラク・セルジューク朝) (1152年没)