伝記
イドリミは、紀元前1490年から前1465年ごろ、あるいは前1450年ごろにアララクの王だったとされる人物である。名は「それは私の助け」を意味する。1939年にレオナード・ウーリーがアララクで発見した自らの像に刻まれた碑文によって知られ、像は現在、大英博物館にある。碑文によれば、彼はハラブ(現在のアレッポ)の王イリム・イリンマ1世の子で、この父はミタンニの王バラッタルナという地域の新たな支配者に退けられたらしい。イドリミはおそらく「ハビル」と呼ばれる集団の助けを得てアララクの王座を得、ミタンニの属国としてムキシュ王国を築いた。北のヒッタイトの領土にも攻め入り、その結果、キッズワトナの国と条約を結んだという。
ただし、像と碑文の年代をめぐっては異論もある。ヤコブ・ラウインガーは、イドリミを前1450年ごろのアララクの王として実在の人物とみなす一方で、像と碑文は前1400年から前1350年ごろに作られたと考える。これをメソポタミアに見られる、王が自らの失敗を後世への教訓として記す偽の自伝(ナル文学)に結びつけ、碑文はミタンニの優位を認めることによってのみアララク支配の正統性を示そうとしたもので、当時の政治に即した読者を想定していたと指摘する。
イドリミは、ハラブを中心とするヤムハド大王国の王たちの子孫で、ハラブの王イリム・イリンマ1世の年少の息子の一人として生まれた。母の実家はユーフラテス川沿いの都市エマルにあった。のちに王位を継ぐ息子ニクメパの父でもある。彼は小王としてムキシュ王国を治め、その都はアララク(第IV層)にあった。この層は前15世紀半ばの、ミタンニ支配下の時代にあたる。像の自伝の前半によれば、ハラブで事件が起こり、彼は家族とともに逃れなければならなかった。ジャック・サッソンは、父が王座を追われたか、王座の奪取に失敗したのではないかと推測した。イドリミは母方の縁につながるエマルの領主たちのもとへ行き、そこで自分を奴隷のように感じていた。マルク・ファン・デ・ミループは、彼が下の者の扱いに不満だったとみる。
トレンパー・ロングマンによれば、自伝の8行目後半から9行目は、イドリミが父の失った王座を取り戻すことを考え、兄弟たちを誘ったことを示すという。兄弟たちが加わらなかったので、イドリミは一人でアララクへ行ったが、やがてカナンのアンミヤへ逃れた。カナンで彼がハビルの人々のなかで暮らした理由は、研究者のあいだでも十分に説明されていない。同じように故郷を追われた難民として心が通じたのだともいい、アララク奪回のために味方を集めていたのだともいう。ガレット・ガルヴィンは、この物語を古代エジプトの『シヌヘの物語』に比べ、高い身分の難民が屈辱と怒りに突き動かされ、故郷に戻る機会をうかがう点が似ていると述べた。
カナンで7年を過ごしたのち、機会が訪れた。碑文の29行目から34行目によれば、嵐の神テシュブが夢で与えた助言に従い、イドリミは船を造り、援軍の兵を乗せて海路でムキシュへ向かった。彼の帰還を聞いた国々は牛や羊を持ち寄り、ニイ、ムキシュ、そして彼自身の町アララクは一日のうちにそろって和解して、条約を結び、彼の同盟者となった。碑文の42行目から51行目では、バラッタルナが7年のあいだ自分に敵対していたと語っているが、のちにイドリミの連合を認めたという。バラッタルナが従ったのは、社会から締め出された者たちの軍が自分を倒すことを恐れたためかもしれないと説明されている。
同じ年に亡くなった人物
- エンリル・ナツィル2世 (紀元前 1500年(推定))
- ネフェルウラー (紀元前 1500年(推定))
- レクミラ (紀元前1500)
- 小甲 (紀元前 1500年(推定))
- Ulamburiash (紀元前1500)
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