伝記
ルドルフ3世は、最後のブルグント王(在位993年〜1032年)である。生年は971年とされ、966年ごろとも、966年から970年の間ともいわれる。父はブルグント王コンラート(平和王と呼ばれ、925年〜993年)、母は西フランク王ルイ4世の娘マティルドで、ブルグント系古ヴェルフ家の最後の男系子孫にあたる。先妻の子である兄のコンラートは967年かその後に亡くなっていた。ルドルフは異母兄弟のブルハルトとともにサヴィニー修道院の特許状の確認に名が見え、父は二人の息子が協力できるよう備えていたとみられる。父の死後、993年の暮れに王に選ばれ、ローザンヌの大聖堂で祝福を受けたと考えられている。
王国の領域は広かったが、王自身の直轄領はずっと小さく、ヌーシャテルとローザンヌ、アヌシー湖の周辺、ブルジェ湖の南岸、サヴォワの渓谷を中心としていた。ブルグントの王たちは「放浪の王権」と呼ばれる形をとり、いくつもの宮殿を移りながら暮らした。ルドルフは993年からサン・モーリス・ダゴーヌ修道院の俗人院長をつとめ、タロワール修道院も支配下に置き、ロマンモティエ、ペイエルヌ、ナントゥア、ヴィエンヌのサン・タンドレの各修道院を保護した。ただ、王には権威を支える手段が乏しく、そのために皇帝の後見が次第に強まり、各地の領主家も力をつけていった。
ドイツ側からの干渉は治世を通じて重くなった。皇帝の死後は、その母でルドルフの叔母にあたるアデライードが影響力を持ち、997年には皇帝がルドルフにローザンヌ司教への土地の返還を命じている。999年にはアデライードが高齢をおしてブルグントを訪れ、甥のルドルフと王国の大貴族との争いを仲裁した。ルドルフは皇帝の影響を抑えようと司教たちを頼り、タランテーズ(996年)、シオン(999年)、ローザンヌ(1011年)、ヴィエンヌ(1023年)に寄進を行った。1011年にはローザンヌ司教に「ヴォー伯領」、すなわち伯の職と、道路、関税、森、貨幣、市場、水などにかかわる王の権利を譲っている。一方、千年を過ぎると王は領内の司教を集めた教会会議を開かなくなり、司教たちは皇帝のもとへ向かうようになった。1007年には、リヨンとタランテーズの大司教、ジュネーヴとローザンヌの司教がフランクフルトの教会会議に出席している。
ルドルフは、まずアギルトルートと結婚し、のちにプロヴァンス伯ルボー2世の寡婦エルメンガルトと再婚した。この再婚は1011年ごろとも1016年ごろともされる。1016年には皇帝ハインリヒ2世がルドルフと交渉して後継者の地位を得た。ハインリヒ2世の死後は、次のローマ王コンラート2世もまた自らを後継者とするよう求め、ルドルフ側の貴族であるブロワ伯ウード2世やブルゴーニュ伯ルノー1世をも巻き込んだ争いとなった。ブルゴーニュ伯オット・ギヨーム側の勢力の侵攻もあり、治世は動乱の時代であった。
ルドルフは1032年9月6日、嗣子のないまま61歳で死去した。コンラート2世は王位を主張し、ブルグント王国を神聖ローマ帝国に併合した。ルドルフには「怠惰王」や「敬虔王」の呼び名があり、怠惰という評判は、皇帝の権威を支える王を見下したドイツ側の年代記作者に由来する。なかでもメルゼブルク司教ティートマルの記述がよく引かれ、後世の歴史家もこれを繰り返して、弱く勇気に欠ける王という見方が長く続いた。この判断が見直され、最後のブルグント王の行動が分析されるようになったのは、1990年代以降の研究によってである。
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