HISTORICAL PERSON · 1897年没

ヤーコプ・ブルクハルト

スイスの歴史家・文化史家。代表作『イタリア・ルネサンスの文化』で「ルネサンス」という言葉を広め、ニーチェとも親交が深かった。

生涯
1897年没
死亡地
スイス連邦(バーゼル=シュタット準州 / バーゼル)
出生地
スイス連邦(バーゼル)
出典
世界地図
スイス連邦(バーゼル=シュタット準州)

伝記

カール・ヤーコプ・クリストフ・ブルクハルトは、1818年5月25日に生まれ、1897年8月8日に没した、スイスの歴史家、文化史家、文明史家である。代表作『イタリア・ルネサンスの文化』で「ルネサンス」という言葉を広めたことで知られる。バーゼルの大教会の説教師の子として生まれ、はじめ神学を学んだが、のちに歴史学に転じた。1840年からベルリンに滞在し、ランケ、ドロイゼン、ヤーコプ・グリムなどの大家に学んだ。美術史家フランツ・クーグラーの講義を聴いて深く啓発され、彼とは生涯にわたる親交を結んだ。1843年末にバーゼルで大学教授資格試験に通り、講師として歴史・美術史を講じるかたわら、「バーゼル新聞」の政治欄の記事を担当した。1846年には教職をなげうって「人間となるため」ローマへ行き、その間にクーグラーが編集する『芸術史綱要』と『絵画史綱要』の仕事を委嘱されて、一年ほどベルリンに滞在した。1848年春には、バーゼル大学から員外教授としての招聘に応じた。

1842年に彼は「私にとって背景が主要な関心事である。そしてそれは文明史によって与えられる。私はそれに身を捧げようと思う」と書いている。直観を概念より優先し、歴史事象そのものよりも時代の雰囲気に関心を持ち、情熱は芸術と学問の歴史、「選ばれたもの」「偉大なもの」に向けられていた。卑俗なものや打算を軽蔑し、統治の技術や制度にも興味を持たなかった。ヘーゲルを嫌悪して歴史哲学には関心がなく、あまりにも個性的だったので学派も形成しなかった。のちにイギリスの歴史家ジョージ・グーチは、一時代や一国民の心理を解釈しようと志した歴史家で、彼の泉から深く飲まなかった者があろうか、と述べている。主な著作に、1853年の『コンスタンティヌス大帝の時代』、1855年の『チチェローネ』、1860年の『イタリア・ルネサンスの文化』があり、没後には『ギリシア文化史』(1897年)や『世界史的諸考察』(1905年)が出版された。

1869年から1879年までバーゼル大学で古典文献学を担当していた哲学者ニーチェとは親交が深く、ニーチェの注意を世界史に向けさせたのはブルクハルトだった。ニーチェは他への書簡でも、隠者のように人と離れて生活しているこの思想家に尊敬の念を示し、友情に感謝している。1872年にはベルリン大学からランケの後任として招かれたが、生粋のバーゼル人として故郷に骨を埋めるつもりだったので、この名誉ある申し出を丁重に断った。晩年の三十年は、印税のために書かされ、出版屋の下僕となって生きることを嫌い、著作活動をやめて教育活動に専念した。1893年に公務を完全に退き、その四年後に心臓病で亡くなった。「うまく隠れて生きた者こそ、よく生きた者だ」という言葉が、彼のモットーだったという。スイス・フランの最高額面1000フラン紙幣には、かつて彼の肖像が用いられていた。

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