伝記
イムレ(エメリック、ラテン名エメリクス)は、ハンガリー王イシュトヴァーン1世とバイエルンのギゼラの子である。1007年ごろに生まれ、1031年9月2日に没した。聖イムレとして崇敬され、生年は1000年から1007年のあいだともいわれる。イシュトヴァーンの次男とされ、成人まで生き残った唯一の息子であった。名は母方の叔父である皇帝ハインリヒ2世にちなむ。ハンガリー語のイムレは、ラテン語のヘンリクスに由来し、「家の支配者」を意味するという。幼いころから敬虔な生き方に傾き、聖母マリアを敬った。幼少から読み書きや文法を教えられ、15歳から23歳まで、ヴェネツィア出身のベネディクト会修道士ゲッレールト(ジェラルド)から、厳しく禁欲的な教育を受けた。
父は王位継承者としてイムレを育て、統治の心得を記した「訓戒の書」を書き与えた。そこには、教会とその人々が統治の最大の味方であること、キリスト教が社会を正しくする最も公正な道であること、外国人を寛大に迎えて他の民族とよい関係を築くことなどが記されていたという。父は存命中にイムレを共同の後継者にしようとも試みた。伝えによれば、イムレは眠る時間が短く、夜ごとに二つの詩篇を歌って自分と世の罪の赦しを願った。貧富を問わず、正しく善良に生きた者に神の国の門は開かれると信じていたとも伝えられる。聖マルティヌス教会の逸話も残る。父とともに訪れたミサで、王家の挨拶を任されたイムレは、会衆に二度、三度、五度、七度と異なる回数の接吻を与えた。理由を父に問われると、人々の徳の多寡に応じたもので、童貞の生活を送る者に七度与えたと答えた。のちに父は七度の接吻を受けた修道士マウリツィウスを問いただし、その篤い信仰を認めてペーチの司教に任じたという。
1022年に結婚した。妻が誰かは定まらず、ビザンツ皇帝コンスタンティノス9世モノマコスの親族のイレーネ・モノマキナ、あるいはロマノス3世アルギュロスの一族の女性とも、クロアチア王クレシミル3世の娘パトリキッサとも、ポーランドのアーデルハイト(リクサ)またはその姉妹の一人ともいわれる。父の命により王家の血を引く娘を妻としたが、婚礼の日に二人は兄妹のように暮らすと約束し、イムレは生涯、純潔を守ったと伝えられる。ヴェスプレームの聖ゲオルク教会で祈ったとき、神にもっともふさわしい捧げものは貞潔だと告げられ、生涯妻を持たないと誓ったとする逸話もある。
ハインリヒ2世の死後、新たな皇帝コンラート2世はハンガリーを属国にしようとして1030年に軍を送り、ジェールの戦いが起こった。イムレもこれに加わった可能性がある。そして1031年9月2日、24歳でイノシシに襲われて死んだ。狩りの最中のことで、場所はヘジケゼセントイムレ(現在のルーマニアのシャントイムル)だったと推測されている。遺体はセーケシュフェヘールヴァールの大聖堂に葬られた。後継者を失った父イシュトヴァーンは、妹マリアの子である甥のペーテル・オルセオロを後継者とせざるをえなかった。
墓では癒やしや改宗などの不思議が起きたという。1083年11月5日、ラースロー1世が盛大な儀式でイムレの遺骨を掘り起こし、教皇グレゴリウス7世は、父イシュトヴァーン、ゲッレールト司教とともに、その敬虔さと純潔のゆえにイムレを聖人に列した。祝日は11月4日である。騎士の鎧を着て王冠をいただき、ユリの花を持つ姿で描かれることが多い。アメリゴ・ヴェスプッチの名はイムレにちなむという説もあるが、確かな根拠はない。
同じ年に亡くなった人物
- カーディル (1031年没)
- グンノール (1031年)
- ロベール2世 (フランス王) (1031年没)
- 顕宗 (高麗王) (1031年没)
- 聖宗 (遼) (1031年没)
同じ地域に関係する人物
- ラーコーツィ・ジェルジ2世 (1660年没)
- バートリ・ガーボル (1613年没)