伝記
ミスカワイヒは、ブワイフ朝に仕えたペルシア人の官僚で、歴史家・哲学者でもある。932年頃に生まれ、1030年2月16日に没したとされる。ただし、生没年をはじめ伝記的な情報は少なく、確かなことはあまり多くない。本来は「イブン・ミスカワイヒ」と呼ぶのが正しいようである。名前の由来は、中期ペルシア語の呼称ミスコーイェかムシュコーイェをアラビア文字で書いたものとされる。
歴史家ヤークートは、彼をゾロアスター教から改宗したペルシア人ムスリムで、100歳で亡くなったと伝える。しかし、父系の名にムハンマドやヤアクーブといったムスリムの名が並ぶことから、少なくとも父か祖父の代にはイスラームに改宗していたとみられる。著作にイスラームへの宗教的情熱をうかがわせる記述は見当たらず、むしろゾロアスター教の司祭階級に通じる教養があったと推測されている。生まれはズィヤール朝治下のライイとする説があり、ジバール地方で育って書記としての技能を身につけたのだろうといわれる。
952年、ブワイフ朝イラク政権の宰相ムハッラビーに気に入られ、宮廷に御伽衆(ナディーム)として迎えられた。以後12年間、バグダードで宰相に仕えた。当時のバグダードはエジプト以東のイスラーム世界の人や物が集まる交流の場で、ミスカワイヒはその富と文化的資産を享受し、有力者の家に出入りして多くの文人や知識人と交わった。歴史家タバリーの著作も、その直接の弟子の一人について熱心に学んだ。ムハッラビーが没した963年にはライイ政権の宮廷に移り、宰相イブン・アルアミードに7年間仕えた。宰相の蔵書や公文書を補う図書館の責任者を務め、宰相の息子アブル・ファトフの教育係も担ったと伝えられる。966年にホラーサーンの軍勢がライイに逗留し、戦士たちが図書館を荒らそうとした際には、本と文書を100頭のラクダに積んで運び出し、図書館を破壊から救ったという。
宰相が970年に没したのちも息子のアブル・ファトフに仕えたらしく、975年にはブワイフ朝軍に従ってバグダードへ行った記録がある。978年からはシーラーズのアドゥドゥッダウラのもとで財務を担う大臣となった。アドゥドゥッダウラが982年(983年とも)に亡くなると、その息子サムサームッダウラに仕えたようだが、対立する兄弟バハーウッダウラに仕えたと伝える史料もあり、詳しいことはわからない。ライイ政権の宰相イブン・サァダーンの御伽衆になったとする説もあり、この宰相は984年から985年に処刑された。その後の約50年の足取りは不明で、没したのはイスファハーンとされる。
著作は20作ほどあり、すべてアラビア語で書かれた。『諸民族の経験』は、ムスリムが書いた同時代の歴史書として最古の本で、イスラーム教の始まりからアドゥドゥッダウラの治世の末まで記す。宮廷内の事件を知りうる立場にあった官僚の記録である。主著の『倫理論』は学問を志す者に向けた倫理哲学の書で、イスラーム思想における倫理学の最古の論文とされる。プラトン的な身体と魂の二元論に立ち、魂の諸部分に調和をもたらすことが幸福にいたる道だと説いた。個人の倫理を公的社会から切り離し、理性は欺瞞や誘惑とは異なることも論じた。ほかに、ペルシア語の『永遠の叡智』をアラビア語に訳した『永遠の叡智の書』がある。また、純正同胞教団(イフワーン・サファー)との関わりを示す同時代の史料もあり、その論文集に彼が書いた部分があるとする説もある。
同じ年に亡くなった人物
- Kresimir III of Croatia (1030年没)
- マフムード (ガズナ朝) (1030年没)
- ハーコン・エイリークソン (1030年)
- アダルベロン (ラン司教) (1030年没)
- ギヨーム5世 (アキテーヌ公) (1030年没)
同じ地域に関係する人物
- ミールエマード・ハサニー (1615年没)
- シェイク・バハエイ (1621年没)
- ラーシド (1138年没)
- サフィー1世 (1633年没)
- アミール・キャビール (1852年没)