伝記
プトレマイオス・ケラウノスは、紀元前3世紀前半のマケドニア王である。紀元前319年ごろに生まれ、紀元前279年に没した。ケラウノスという添え名はギリシア語で「雷」を意味し、せっかちで衝動的、破壊的な性格を表したものとされる。エジプト王プトレマイオス1世と、マケドニアの摂政アンティパトロスの娘エウリュディケとの間に生まれた長子で、六人の子の最初であった。のちに父は侍女のベレニケと結婚して、のちのプトレマイオス2世を含む子をもうけた。はじめケラウノスが後継者の最有力であったが、異母弟が成長するにつれて二人の間に権力争いが生じ、紀元前287年ごろ、ケラウノスはエジプトを去った。異母弟は紀元前284年に父の共同統治者に引き上げられた。
ケラウノスが身を寄せたのは、マケドニア、トラキア、小アジア西部を治めるリュシマコスの宮廷であった。リュシマコスは紀元前300年から、プトレマイオス2世の同母姉アルシノエ2世と結婚していた。一方、リュシマコスの後継者アガトクレスは、ケラウノスの同母妹リュサンドラを妻にしており、二人の妃はすでに継承をめぐって争っていた。紀元前282年にアガトクレスが処刑されたが、その経緯とケラウノスの役割は明らかでない。ある歴史家は彼が手を下したと伝える。しかし、ほかの記録はみな彼をアガトクレス側に置き、未亡人となった妹リュサンドラとともにセレウコス1世のもとへ逃れたとしている。
この処刑は臣下の強い反発を呼び、セレウコスは紀元前281年の初めにリュシマコスの王国へ侵攻した。コルペディオンの戦いでリュシマコスは敗死し、セレウコスはその領土を併合した。ケラウノスはセレウコスの側近に加えられたが、紀元前281年9月、ヘレスポントスを渡ってマケドニアへ攻め入ろうとしていたセレウコスが、アルゴスと呼ばれる場所で供犠を行っていたとき、これを殺害した。セレウコスの登位援助の意思がないと悟ったためともいう。こうしてアレクサンドロス大王の後継者たちの最後の一人が世を去った。
ケラウノスはリュシマキアに急ぎ、そこにいたセレウコス軍の一部に王として歓呼され、エジプト王位への要求を正式に放棄した。彼はこれをリュシマコスの復讐として宣伝し、後継者らしく見せるため、リュシマコスの未亡人アルシノエに結婚を申し込んだ。ところが結婚後、彼女の子供たちを殺し、彼女をサモトラケに追放して、彼女が支配していたカッサンドレイアの町を奪った。エピロス王ピュロスとも同盟し、ピュロスのイタリア遠征に歩兵5000、騎兵4000、戦象50頭を貸したという。また、父がマケドニア王であったアンティゴノス・ゴナタスが王位を狙うと、海戦でこれを破ってテッサリアのデメトリアスに封じ込め、セレウコスの子アンティオコス1世とは講和した。
紀元前279年、ガリア人がマケドニアとギリシアに侵入した。ケラウノスはダルダニ族の援軍の申し出を断り、自力で撃退しようとした。ガリア人から講和の申し出があっても、自分を恐れてのことだと思い込んで退けた。数日後に戦ったとき、彼は遅れて来る味方の増援を待たずに戦い、敗死した。その首は槍に付けられて戦場を引き回されたという。在位は約17か月であった。後を弟のメレアグロスが継いだが、まもなくアンティパトロス・エテシアスに廃され、紀元前277年にアンティゴノス2世が即位するまで、マケドニアでは王が次々と代わる不安定な情勢が続いた。
同じ年に亡くなった人物
- Ariarathes II of Cappadocia (紀元前279)
- ヒッパルキア (紀元前 279年)
- リンドスのカレス (紀元前279)
- リュコプローン (紀元前279)
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