HISTORICAL PERSON · 1896年没

ホセ・リサール

フィリピンの革命家・医師・著作家。独立運動に取り組んだことから国民的英雄と称される。中国系と現地人の混血の家系で、11人兄弟の7番目に生まれた。

生涯
1896年没
死亡地
フィリピン共和国(マニラ首都圏 / マニラ)
出生地
フィリピン共和国(カランバ)
出典
世界地図
フィリピン共和国(マニラ首都圏)

伝記

ホセ・プロタシオ・メルカード・リサール・アロンソ・イ・レアロンダは、1861年6月19日に、スペイン領東インドのルソン島で生まれたフィリピンの革命家、医師、著作家、画家、学者である。フィリピンの独立運動に取り組んだことから、国民的英雄と称される。父は農民のフランシスコ・メルカード、母はテオドラ・アロンソで、11人きょうだいの7人目の子であり、姉が5人、兄が1人、妹が4人いた。家系は中国人とフィリピン人の混血であるメスティーソの一族で、父方の祖先は17世紀に中国福建省の晋江から渡り、先住民の女性と結婚した人物の息子で、商人の柯儀南にさかのぼる。柯は1697年に洗礼を受け、1731年に自分が商人であることを考えて、姓をスペイン語で市場を意味するメルカードに改めた。父は1859年に、牧草地を意味するリサールという姓も使うようになった。母方は日本人とスペイン人の血が混ざっているとされる。

彼は8歳でタガログ語とスペイン語を身につけ、9歳でビニャーン校に入学した。初等教育を終えると、1877年に16歳でマニラのアテネオ学院に入学し、農学や土地測量の技術を学んだ。母が失明の危機に陥ったため、当時フィリピンの最高学府だったサント・トマス大学で医学も学んだ。在学中の1879年にスペイン語の詩のコンテストで最優秀賞を獲得し、1881年9月にはスペイン政府から土地査定技師の免許を授けられた。父の反対を押し切って、宗主国スペインのマドリード大学への留学を決め、1882年6月にマルセイユとバルセロナを経て、同年10月にマドリード大学の医学部と哲文学部に入学した。猛勉強の末、26歳までに、スペイン語、フランス語、ドイツ語、英語、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語、サンスクリット語など多くの言語を習得し、中国語、日本語、タガログ語なども研究した。同級生には、のちに哲学者として名を上げるウナムーノがいた。

1885年6月に哲文学博士と医学士の学位を得たが、金銭事情から医学博士号は取れなかった。その後、パリ大学でフランス語と眼科学を学び、フランス革命の人権宣言をタガログ語に訳している。1886年2月から1887年5月まではドイツのハイデルベルク、ライプツィヒ、ベルリンの各大学で医学と社会学を学び、ドイツ語で書いた社会学の論文が評価されてドイツ国籍の取得を薦められたが、固辞した。1887年2月21日、ベルリンで小説『ノリ・メ・タンヘレ』(「我に触れるな」の意)を出版し、同年8月にフィリピンに戻って、故郷のカランバで医者として働いた。しかし、小説が反植民地的だとしてスペイン植民地支配層から問題にされ、身の危険を感じて、27歳で再び旅立った。

二度目の目的地もヨーロッパだったが、日本とアメリカ合衆国を経由した。1888年2月28日に横浜に着き、スペイン公使館などに宿泊した。船の乗り継ぎのため2日だけの予定だったが、近所で見かけた臼井勢似子に声をかけて親しくなり、二人で歌舞伎見物や日光、箱根への旅をして、2か月近く滞在し、日本の文化と言葉を学んだ。リサールは誰にも勢似子のことを話さなかったが、没後に遺族が遺品を整理すると、彼女の写真が一枚見つかった。日記には「あなたのように私を愛してくれた人はいなかった」と記されていた。同年4月13日、サンフランシスコ行きの船に乗り、船中で自由民権運動の末広鉄腸と親しくなった。1896年12月30日に没し、その死は日本でも多く報道された。

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