伝記
ベニグノ・アキノ3世は、1960年2月8日にマニラで生まれたフィリピンの政治家で、第15代大統領を務めた。通称はノイノイ。父はタルラック州副知事だったベニグノ・アキノ・ジュニア、母はのちに大統領となるコラソン・アキノで、5人きょうだいの3番目にあたり、姉妹が4人いる。妹はテレビ司会者で女優のクリス・アキノである。アテネオ・デ・マニラ大学で初等教育から大学まで学び、1981年に経済学の学士を取得した。その後、アメリカに出ていた家族とボストンで合流した。
1983年8月に父が空港で殺害されると、帰国して企業で働き、ナイキやモンドラゴンの販売促進の仕事も経験した。1986年には同族会社の副社長となっている。1987年8月28日、グレゴリオ・ホナサンらによるクーデター未遂が起きたとき、大統領府から道2本離れた場所にいて銃撃を受けた。4人の警護官のうち3人が犠牲になり、1人は彼を守って負傷した。本人も5発被弾し、うち1発は首に残ったままだった。1993年からは一族が所有する精糖プラントに勤めた。
アキノ家はタルラック州の政治家一族で、曾祖父はマロロス議会の代議員、祖父のベニグノ・アキノ・シニアは日本占領下の国民議会で議長を務めた。彼は第4世代の政治家にあたる。
1998年6月にタルラック州第2選挙区から下院議員に当選した。下院議員は4選が禁じられているため、2007年の選挙では「真の野党」から立候補して上院議員となり、改選12議席に37人が立った中で6番目に多い1430万票を得た。選挙中には、かつて自分を撃った側のホナサン上院議員の保釈を支持すると述べ、「真の和解は民主主義の中で進む」と語った。自由党では事務総長や副議長などを務めた。
2009年8月に母が亡くなると、跡を継ぐよう周囲の期待が高まり、支持の広がりは「ノイノイ現象」と呼ばれた。弁護士と活動家のグループが推進運動を結成し、有力な実業家の息子チノ・ロセスが100万人の署名を集めるキャンペーンを行って、黄色いリストバンドが作られた。8月末にはロハス上院議員と数日かけて話し合い、9月1日に有力な大統領候補だったロハスが出馬を辞退して支援を表明した。そして母の死から40日後の9月9日に正式に出馬を表明した。投票の結果、2010年6月に1520万票余りで当選が確定し、リサール公園で就任式を迎えた。就任演説では貧困からの脱却、教育やインフラの整備、医療などを最優先に取り組むと述べた。避妊を含むリプロダクティブ・ヘルス法案を支持し、カトリック教会から破門の可能性を示されたが、立場を変えず法案は成立した。
外交では、南シナ海の領有権をめぐって中国と対立し、常設仲裁裁判所に仲裁手続きを取った。日本との関係では、2011年8月に日本の仲介でモロ・イスラム解放戦線の議長と極秘に会談し、2015年には国賓として来日して大勲位菊花大綬章を受けた。任期中には森林回復のための植林計画も進めた。中国に対しては、華人の血が流れているとされながら強硬な姿勢をとり、任期中は激しく対立したため、フィリピンの華僑社会には不信があるとされる。生涯独身で、フィリピンの歴代大統領で唯一の未婚者である。射撃とビリヤードを好み、愛煙家でもあり、音楽ではボサノバなどを好むオーディオマニアでもあった。任期は2016年6月までで、2021年6月24日に61歳で亡くなった。
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