HISTORICAL PERSON · 1896年没

アウグスト・ケクレ

ドイツの有機化学者。炭素の原子価が4であり炭素原子同士が鎖状に結合することを提唱し、1865年にベンゼンの環状構造式ケクレ構造を提唱した。ボン大学教授を務め、化学者の国際会議の開催にも力を注いだ。

生涯
1896年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ノルトライン=ヴェストファーレン州 / ボン)
出生地
ドイツ連邦共和国(ダルムシュタット)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ノルトライン=ヴェストファーレン州)

伝記

フリードリヒ・アウグスト・ケクレ・フォン・シュトラドーニッツは、1829年9月7日、ヘッセン大公国の首都ダルムシュタットで生まれたドイツの有機化学者である。生涯を通じてアウグスト・ケクレの名で知られた。父カールはヘッセン大公国の軍事参議官を務めた官吏だった。姓のeの上のアクセントは、ナポレオン時代のフランスによるヘッセン占領中に、フランス語話者が3番目の音節を正しく発音できるよう、父が付け加えたものとされる。ダルムシュタットのギムナジウムを卒業して、1847年にギーセン大学に入学し、はじめは建築学を志望していたが、翌1848年にユストゥス・フォン・リービッヒの有機化学の講義を聴いて感銘を受け、一旦退学して化学に転向した。1849年に再び入学してリービッヒの門下生となった。

1851年に卒業すると、パリでデュマのもとに留学し、ヴュルツやジェラールと知り合って、彼らが研究していた型の説を学んだ。翌年リービッヒのもとに戻り、アミルオキシ硫酸の研究で博士号を取得した。その後スイスのクールで分析化学者プランタの助手を務め、1854年にはロンドンに移って、聖バーソロミュー病院のステンハウスの助手となった。ここでウィリアムソンらと知り合い、ウィリアムソンの水の型の概念が硫黄化合物にも適用できると提唱した。1856年にはハイデルベルク大学のブンゼンのもとで講師となり、1857年にメタンの型の概念を提唱した。翌1858年にはこれを拡張して、炭素原子の原子価は4価で、炭素原子どうしが結合して鎖状化合物をつくると説いた。この年にヘント大学の教授となり、不飽和脂肪酸の幾何異性体を研究して二重結合の概念を考察した。

1859年には有機化学の教科書の第1巻を出版した。この教科書は1880年に第4巻第1部まで出たところで中断したが、以後の教科書の模範となった。また、1860年に開かれた世界初の化学者の国際会議であるカールスルーエ国際会議の開催にも力を注いだ。1865年に、ベンゼンの構造として、二重結合と単結合が交互に並ぶ六員環のケクレ構造(亀の甲)を提唱した。フランス語の論文を出し、翌年にはドイツ語でより長い論文を発表している。1867年にボン大学へ移り、終生その教授を務めて芳香族化合物の研究を続けた。1872年には、2置換ベンゼンの異性体の数を説明するため、ベンゼン環は二つのケクレ構造の間を振動しているという仮説を示した。安定性の原因は不明のままだったが、異性体の数は矛盾なく説明でき、芳香族化合物の整理と体系化が可能となった。

ケクレは、鎖状化合物とベンゼンの環状構造の着想を夢から得たと主張している。1854年のロンドンで、馬車の中で原子が連なる夢を見て、1861年のヘントでは、ストーブの前でうたた寝をして、蛇が自分の尻尾をくわえて回る夢を見たという。これは1890年のベンゼン祭での講演の記録に残るが、話の信憑性を疑う向きもある。ドイツ化学会の会長を1878年、1886年、1891年に務め、1895年に皇帝ヴィルヘルム2世から貴族に列せられた。1896年7月13日にボンで死去した。門下にはバイヤー、ヴァラッハ、クライゼンらがいる。

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