HISTORICAL PERSON · 1020年没

バーリのメロ

バーリ出身のロンバルド人貴族。1009年に義弟と東ローマ支配に反乱を起こし、のちノルマン人を誘って戦ったがカンナエの戦いで敗れた。皇帝ハインリヒ2世からアプーリア公の称号を受け、2年後に没した。

生涯
1020年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バイエルン州 / バンベルク)
出生地
イタリア共和国(バーリ)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バイエルン州)

伝記

メロスは、南イタリアのアプーリアの都市バーリ出身のロンバルディア人貴族で、1020年に没した。十一世紀初め、ビザンツ帝国のイタリア総督領から自立した領地を切り取ろうとし、その野心がはからずも南イタリアでのノルマン人の足場を生んだとされる。メロスはミルス、メレスとも呼ばれ、アプーリア公の初代とされる。

1009年、メロスは義兄弟のダットゥスとともに反乱を起こし、まもなくバーリを奪った。1010年にはアスコリとトロイアも手に入れた。しかし新任の総督バシレイオス・メサルドニテスが大軍を集め、1011年6月11日にバーリは落ちた。メロスはサレルノ公グアイマル3世の保護下へ逃れ、ダットゥスはモンテ・カッシーノ修道院へ逃げた。ギリシア人に反対する修道士たちは、教皇ベネディクトゥス8世の求めに応じて、ガリリアーノ川の要塞化した塔をダットゥスに与えた。だがメロスの家族は捕らえられ、コンスタンティノープルへ連れ去られた。

1016年、ノルマン人の年代記作者アプーリアのウィリアムによれば、メロスはモンテ・ガルガーノの聖ミカエル聖堂へ赴き、そこでノルマン人の巡礼を待ち受けた。メロスはレーヌルフ・ドレンゴらノルマン人の亡命者の一団に反乱への助力を求め、勝利は容易で戦利品も豊かだと請け合ったという。1017年にはノルマン人の冒険者たちが南へ向かい、カプアでメロス率いるロンバルディア軍と合流して、ただちにアプーリアに進んだ。5月にはフォルトーレ川のほとりで総督コントレオン・トルニキオスの軍に勝ち、9月までにフォルトーレ川とトラーニの間の地をすべて押さえて、アプーリアを荒らした。

ところが10月に大敗を喫する。新たな総督バシレイオス・ボイオアネスが、予備兵の大軍と皇帝バシレイオス2世から得たヴァリャーグ親衛隊の一隊を集め、オファント川のほとり、かつてハンニバルがローマ軍を破ったカンナエの地で両軍を迎え撃った。この第二のカンナエの戦いは、指導者ギルバートを失ったノルマン人にとっても、指導者たちが逃げたロンバルディア人にとっても、惨敗だった。メロスは教皇領のサムニウムの地へ、ダットゥスはモンテ・カッシーノの塔へ逃れた。

メロスはその後も南イタリアと中部イタリアをさまよい、ついに北上してドイツに至った。バンベルクの皇帝ハインリヒ2世の宮廷にたどり着き、皇帝から名ばかりのアプーリア公の称号を与えられるなど大いに厚遇されたが、打ちのめされた人として、その二年後に没した。それは、ビザンツの勝利への帝国の対応を協議するため、教皇ベネディクトゥス8世が復活祭のころにバンベルクを訪れた直後のことだった。古い盟友の皇帝は、盛大な葬儀を営み、新しいバンベルク大聖堂に飾りのある墓を築いたという。コンスタンティノープルでの幽閉から戻った息子アルギュロスが、アプーリアでのロンバルディア人の独立のための闘いを引き継いだ。

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