伝記
三条天皇は、日本の第67代天皇である。諱は居貞といい、976年2月5日(天延4年1月3日)に生まれ、1011年から1016年まで在位した。冷泉天皇の第二皇子で、母は摂政太政大臣藤原兼家の長女、藤原超子である。異母兄に花山天皇がいる。冷泉上皇と超子の子として、母の実家である東三条邸で生まれた。
7歳で母を失い、父の冷泉上皇は精神の病を患っていたため、後見は弱かった。それでも外祖父の兼家に姿が酷似し、風格があったといい、兼家に深く愛されて育ったことが『大鏡』に見える。986年6月、花山天皇が出家して7歳の懐仁親王(一条天皇)に譲位すると、7月16日、11歳の居貞親王は兼家の後押しで東宮となった。冷泉系と円融系が交代で皇位につく両統迭立に基づく立太子であったが、東宮のほうが天皇より4歳年上だったため、「さかさの儲けの君」と呼ばれた。兼家は冷泉・円融の両天皇に娘を入内させていたが円融天皇とは不仲で、冷泉天皇が超子とのあいだに3人の親王をもうけていたことから冷泉系を重んじたとも、孫の一条天皇が即位し、自らが摂政となった兼家が、もう一人の孫も東宮に立てたとも考えられている。
一条天皇の時代には、兼家の死後、外舅にあたる藤原道隆・道長の兄弟が相次いで政権を握った。東宮の後宮には、989年に叔母の藤原綏子が入り、991年には藤原済時の娘の娍子が入って、994年に敦明親王を産んだ。995年には道隆の娘の原子が入内したが、綏子と原子は早く世を去り、一時は外舅の身内ではない娍子のみが東宮女御となった。1010年に道長の次女の妍子が入内した。1011年、危篤の一条天皇が崩御の数日前に譲位し、36歳の居貞親王はようやく即位した。皇太子には一条天皇の第二皇子、敦成親王が立った。
翌1012年、妍子が中宮となったが、三条天皇は長年の妻である娍子を皇后に立て、二后が並び立つ形となった。孫の敦成親王の早い即位を望む道長と、親政を望む三条天皇との関係は円滑を欠いた。娍子の立后に加え、妍子との間に女子しか生まれなかったことで、両者の関係は決定的になったという。1013年には禎子内親王が生まれている。この間、天皇は石清水八幡宮や賀茂社に参詣し、のちの天皇もこれにならって毎年参詣したと伝えられる。1014年、天皇は眼病を患い、仙丹を服用した直後に視力を失ったともいわれる。道長はこの眼病を理由に、しきりに譲位を迫った。この年と翌年には内裏が相次いで焼失し、病状も悪化した。1016年、三条天皇は皇后娍子の子である敦明親王を皇太子に立てることを条件に、道長の勧めに従って敦成親王(後一条天皇)に譲位し、太上天皇となった。翌1017年4月に出家し、まもなく42歳で没した。譲位の際に詠んだとされる歌は小倉百人一首に採られている。没後、譲位後の居所にちなみ「三条院」と追号された。
同年8月、敦明親王は道長の無言の圧力を受けて自ら東宮を辞退し、冷泉・円融両系の両統迭立は終わった。以後、皇位は長く円融天皇の系統に戻ったが、三条天皇の血筋も、禎子内親王を通じて後の皇室に受け継がれた。禎子内親王は後朱雀天皇の皇后で、後三条天皇の母である。娍子とのあいだには、敦明親王のほか、敦儀親王、敦平親王、当子内親王、禔子内親王、師明親王らが生まれた。陵は京都市北区にある北山陵に治定されており、皇居の皇霊殿では歴代の天皇とともに祀られている。
同じ年に亡くなった人物
- ラモン・ボレイ (1017年没)
- ウートレッド (1017年没)
- 源信 (僧侶) (1017年没)
- エアドリク・ストレオナ (1017年)
- エルビラ・ガルシア・デ・カスティーリャ (1017年没)
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