伝記
孟子は、中国の戦国時代の儒学者である。紀元前372年に生まれ、紀元前290年に没したとされる。孔子の孫である子思の門人に学んだと伝わり、朱子学では孔子に次いで重んじられ、儒教が「孔孟の教え」とも呼ばれるゆえんとなった。性善説を唱え、仁義と民本にもとづく王道政治を目指した。言行は『孟子』にまとめられている。
鄒国(現在の山東省済寧市鄒城市)の人で、母が彼を育てた話がよく知られている。墓地の近くに住むと葬式の真似をし、市場の近くに移ると商人の真似をしたので、母は学問所の近くへ移り、ようやく安心したという。これが孟母三遷で、史実ではないとされるが、環境が子に与える影響を語る例としてよく引かれる。また、学業を途中でやめて帰った彼を、母は織りかけの布を刀で断ち切って諫めたという孟母断機の話もあり、彼は再び勉学に励んだとされる。いずれも漢代の書物に見える伝説である。『史記』は、彼が子思の門人に学んだと記す。子思に直接学んだという説もあるが、年代が合わない。
自らを王の師であり賓客だと考え、諸国を巡るときには数十台の車と数百人の従者を従えたという。魏の恵王が、秦や斉に奪われた土地を取り戻す方法を尋ねると、仁政を施せば小国でも誰にも負けないと説き、これを仁者無敵と言った。仁政とは、刑罰を簡単にして税を軽くし、丁寧に耕作させ、若者には孝悌忠信の教えを授けることである。恵王の子襄王には「君主らしく見えない」と失望して斉へ行った。斉では、自由に論じるだけで俸禄を得る稷下の学士と同列にされることを嫌って国士としての扱いを望み、召されても参内せず、進言のあるときだけ自分から王宮へ行くとした。あるとき宣王が、殷の紂王を臣下の武王が討ったことを問うと、仁を害し義を害した者はただの男にすぎず、君を殺したとは聞いていないと答えた。君主の位がいかに軽いかを示す言葉である。また卿の心得について問われると、王族出身の卿は君に大きな過ちがあれば諫め、聞かれなければ君を替え、異姓の卿は諫めて聞かれなければ去ると説いた。これを聞いて宣王は顔色を変えたが、彼は動じなかったとされる。
斉に仕えて七、八年ほど経った頃、宣王が病を理由に呼び出そうとしたが、彼も病だと断った。翌日には弔問に出かけ、その間に王の使者が来て弟子が取り繕う事態となり、両者の仲はぎくしゃくした。彼は斉を去る決意を固めた。宣王は引き止めようと大邸宅と一万鍾の俸禄を提示したが、彼は、富を望むのなら十万鍾を辞退して一万鍾を受けたりはしないと述べて断った。市で高所に登って利を独り占めする卑しい男の話を引き、自分はそのような者ではないと述べたともいう。斉の国境の昼で三日も留まったことは、王からの使者を待つかのようだと評判を落としたが、彼は、王が考えを改めれば必ず呼び戻すはずで、そうでなくても王を見捨てないと語った。
思想の中心は、孔子の仁を発展させた仁義である。歴代の君主を、武力で一時の仁政を行う覇者と、徳で本当の仁政を行う王者に分け、後者の王道を説いた。小国でも徳を慕われれば人々が心服するとし、領土や軍事力の拡大ではなく、民の心を得て天下を取るべきだと述べた。利益で国を強くする道を問われれば、君主は利でなく仁義で国を治めよと答えた。
同じ年に亡くなった人物
- Onesikritos (紀元前289)
- シュラクサイのアガトクレス (紀元前289年没)
- ロドスのエウデモス (紀元前 289年)
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