伝記
ベルト・モリゾは、1841年1月14日にブールジュで生まれ、1895年3月2日にパリで没した19世紀フランスの画家で、印象派の中心的な人物の一人である。エドゥアール・マネの絵画のモデルとしても知られ、夫はマネの弟ウジェーヌ・マネ、一人娘はジュリー・マネである。官吏の父エドメ・ティビュルス・モリゾと、国の出納官の家系の母コルネリーの三番目の娘として生まれ、上に二人の姉、下に弟がいた。家はフラゴナールの家系ともいわれる。父の仕事のため転居を重ねたのち、1852年に当時パリ西郊の農村だったパッシーに落ち着き、モリゾは亡くなるまでパリで過ごした。音楽や芸術に関心のある両親は、ベルトと姉エドマに絵を学ばせ、1857年に私的なデッサンの授業に通わせた。教師の一人ギシャールは、二人の望む本格的な教育を与え、ルーヴルでの模写も勧めた。ベルトとエドマはともに画家を志していたが、のちにエドマは結婚して子ができたため画家の道を諦めた。二人の手紙には親愛があふれ、ベルトは姉が絵を描けなくなったことを残念に思っていたことが読み取れ、エドマもその後ベルトを心を込めて支え続けた。
20歳のころ、姉とともにバルビゾン派のコローに師事し、戸外での制作を始めた。1861年の夏には、ヴィル=ダヴレーのコローの家で一緒に制作している。1864年、23歳のとき、二つの風景画でサロンに初めて入選し、その後も1873年ごろまで出品を続けた。1868年、ルーヴルでの模写の最中にマネと出会い、長く続く友情と、職業上の交流が始まった。マネに絵を学びながら、1868年から1874年にかけて十数点の作品でモデルをつとめ、恋仲の噂も立てられたが、基本的にマネが師でモリゾが弟子であるとされつつ、二人は互いに影響を与えあった。モリゾがいつも母とともにモデルを務めたことも伝わる。ルノワールやマラルメとも親交があり、火曜日の自宅での集いや木曜日のマネ家の集いで、詩人や画家たちと議論を交わし、芸術界の中心に近づいていった。
1870年に普仏戦争が始まると、モリゾとマネは、パリにとどまることを選んだ芸術家に含まれた。1874年、マネの弟ウジェーヌとパッシーの教会で結婚し、夫が建てた建物に住んだ。同じ年の第1回印象派展に参加し、印象派の先駆けとなる活動を続けた。1878年に一人娘ジュリーを出産し、夫婦仲はよく、夫や娘を題材にした作品を多く描いた。自然の緑を基調にした穏やかな画風で、母子のほほえましい情景が特徴的である。細かく砕いた筆致の複雑な網目によって、視覚の感覚を表そうとした。男性中心の19世紀に活躍した女性画家であることから、フェミニズムの研究でもよく取り上げられる。
1895年に54歳で死去し、マラルメ、ルノワール、ドガが、夫妻の遺した一人娘ジュリーの後見人となった。ジュリーは日記を綴り、そこにはマラルメや印象派の画家たちの日々の様子が描かれ、日本語にも『印象派の人びと』として訳されている。没後の回顧展では、マラルメがカタログの序文を寄せた。1900年にジュリーは画家エルネスト・ルアールと、ポール・ヴァレリーはモリゾの姪ジャニ・ゴビヤールと結婚し、2組の新婚夫婦の合同記念写真が残る。
同じ年に亡くなった人物
- メイエル・デ・ハーン (1895年没)
- ジョン・ウェズリー・ハーディン (1895年没)
- フランチェスコ・フィリピーニ (1895年没)
- アレクサンドル・デュマ・フィス (1895年没)
- バンジャマン・ゴダール (1895年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジャン=ルー・ダバディ (2020年没)
- ウォリス・シンプソン (1986年没)
- ルイ・アルマン2世 (コンティ公) (1727年没)
- クローディーヌ・オージェ (2019年没)