HISTORICAL PERSON · 1011年没

ベルンハルト1世 (ザクセン公)

ビルング家出身で、父ヘルマン・ビルングに続きザクセン公の称号を初めて正式に用いた人物。デーン人と3度戦い、オットー3世の対スラヴ遠征にも従軍しその権力は王に匹敵した。

生涯
1011年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ノルトライン=ヴェストファーレン州 / コルヴァイ)
出生地
—
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ノルトライン=ヴェストファーレン州)

伝記

ベルンハルト1世は、950年ごろに生まれ、1011年2月9日に没したとされるザクセン公である。ビルング家の公で、973年から1011年まで在位した。父は同家のヘルマン、母はオダで、ヘルマン・ビルングの長男にあたる。ビルング家のザクセン公としては二代目にあたり、父の築いた勢力をさらに大きく拡大した。

父ヘルマンは皇帝オットー1世からザクセンを任された人物で、953年に王からザクセンの統治者に任じられたとされる。しかしザクセン公の称号を用いたのは、ベルンハルト1世が最初であった。父が973年に没すると、彼は公の地位とザクセンの諸領に対する宗主権を受け継いだ。皇帝オットー1世とその子オットー2世、さらに孫のオットー3世の宮廷に、つねに近い立場にあったとされる。

軍事の面では、ザクセンに侵攻してきたデーン人と974年、983年、994年の3度にわたって戦った。また、舅にあたるシュターデ伯ハインリヒとともに、デーン王ハラルド青歯王に対する遠征軍を率いたとされる。983年に皇帝オットー2世が没して後継者争いが起こると、バイエルン公ハインリヒ2世(喧嘩公)が王位を狙った。ベルンハルトはこれに反対する勢力をまとめ、オットー3世を支持してハインリヒに対抗した。マインツ大司教ヴィリギスと協力し、ハインリヒに連れ去られていた幼王の解放にも貢献したという。

986年の復活祭の日曜日、クヴェードリンブルクでオットー3世が盛大に戴冠した際、ベルンハルトは争いの勝利を受けてマルシャル(厩役)の職を与えられた。991年と995年には、オットー3世のスラヴ人に対する遠征にも同行している。その権力はドイツ王に匹敵するほどになったといわれ、父ヘルマンが王の側からザクセン人に向き合う代表であったのに対し、彼はザクセン人の側から王に向き合う代表となった。ポーランドのボレスワフ・フロブリを、土地の盗賊が襲ったときに救ったという話も伝わる。

990年には、シュターデ伯ハインリヒ1世禿頭伯(976年没)の娘ヒルデガルトと結婚した。夫妻には少なくとも5人の子があり、夭折したヘルマン、後継者となるベルンハルト2世、1048年にペールデで決闘のすえに没したティートマル、メテレンとヘルフォルトの女子修道院長となったゲデスディウなどがいた。ほかに修道女マティルダや、ホラント伯ディルク3世の妻となったオテレンディスも子とされる。ベルンハルト1世は1011年に没し、リューネブルクの聖ミヒャエル教会に葬られた。妻ヒルデガルトも同じ年に世を去っている。

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