HISTORICAL PERSON · 1007年没

ギーゼラ・フォン・ブルグント

バイエルン公ハインリヒ2世の妃で、後の神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世の母。夫が皇帝オットー2世に反乱して捕らわれた間は息子とともに各地を転々とした。

生涯
1007年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バイエルン州 / レーゲンスブルク)
出生地
ドイツ連邦共和国(レーゲンスブルク)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バイエルン州)

伝記

ギーゼラ・フォン・ブルグントは、955年ごろに生まれ、1007年7月21日に没したバイエルン公ハインリヒ2世の妃である。のちに神聖ローマ皇帝となるハインリヒ2世の母にあたる。没年は1006年とも1007年ともされ、生まれは955年から960年ごろ、アルルとする説もある。

ギーゼラはブルグント王コンラートの長女で、母は恐らくコンラートの最初の妃アデライード・ド・ベレとみられる。母の死後、父は西フランク王の娘マティルドと再婚し、ギーゼラには異母弟のルドルフ3世と、996年にフランス王ロベール2世と結婚した異母妹ベルタらができた。ルドルフ3世は父の跡を継いだブルグント王である。父コンラートは937年からブルグント王で、ドイツ王オットー1世が若年の彼を保護下に置いたことで、イタリア王ユーグのブルグントへの野望は砕かれた。951年、オットー1世はコンラートの妹アーデルハイトと結婚している。ギーゼラの叔母にあたるこのアーデルハイトは、のちに教皇ウルバヌス2世によって列聖された。

965年ごろ、ギーゼラはオットー1世の甥であるバイエルン公ハインリヒ2世と婚約した。そのときギーゼラは5歳から10歳、ハインリヒは14歳ほどだった。二人は972年以前に結婚した。973年にオットー1世が没し、息子のオットー2世が即位すると、18歳の新帝は、帝国南部に強力な勢力圏を築いていた従兄弟のハインリヒ2世と、ブルグントとの関係に対処せねばならなかった。同じ973年、ハインリヒ2世の義兄にあたるシュヴァーベン公ブルヒャルト3世が死去した。オットー2世がハインリヒ2世の要求を無視し、公領を自らの甥にあたるオットーに与えると、ハインリヒ2世はただちに反乱を起こした。

数年続いた争いのなかで、ハインリヒ2世はインゲルハイムの王宮に捕らえられたが逃亡し、976年にバイエルン公位を剥奪された。その二年後には、ユトレヒト司教フォルクマルのもとに再び監禁された。夫が囚われていた間、ギーゼラと息子ハインリヒはフライジング司教アブラハムのもとに身を寄せたとみられ、ギーゼラは裁判の後、メルゼブルクで暮らした。ハインリヒ2世は983年にオットー2世が死ぬまで解放されなかった。解放後は、跡を継いだ幼いオットー3世から王位を奪おうとしたが、母后テオファヌと、ギーゼラの叔母でオットー1世の妃であったアーデルハイトに阻まれた。985年、ついに屈服して、再びバイエルン公領を与えられた。

ギーゼラとハインリヒ2世の間には、ハインリヒ(973年〜1024年)、ブルーノ(992年ごろ〜1029年)、ギーゼラ(985年ごろ〜1060年代)の三子が生まれた。ハインリヒは995年に父からバイエルン公位を継ぎ、1002年にローマ王に選ばれ、1014年に皇帝となった。ブルーノは1006年からアウクスブルク司教となり、娘ギーゼラはハンガリー王イシュトヴァーン1世の妃となった。ギーゼラは1002年に息子がローマ王に選出されるのを見届け、1007年7月21日に没したと、メルゼブルクのティートマールは伝える。遺骸はレーゲンスブルクのニーダーミュンスター修道院に葬られた。娘ギーゼラは母の墓に、豪華な「ギーゼラの十字架」を寄贈した。この十字架は現在ミュンヘンのレジデンツに収蔵され、キリスト像の足もとには王妃と修道女の小さな像が刻まれている。

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