伝記
フルーリのアボは、フランスのフルーリ修道院(現在のサン・ブノワ・シュル・ロワール)の修道士で、のちにその院長となった人物である。1004年11月13日に没した。聖アボとも呼ばれる。
オルレアンの近くに生まれ、ベネディクト会のフルーリ修道院で育った。パリとランスで学び、哲学、数学、天文学に打ち込んだ。985年から987年までの2年間はイングランドで過ごし、新しく創建されたハンティンドンシャーのラムジー修道院を中心に、ヨーク大司教オズワルドが修道制を立て直すのを助けた。986年から987年にかけては、この修道院の院長と学校の指導者も務めている。この時期、東アングリア王エドマンドが870年11月に殉教したと知り、ラテン語でその受難伝を書いた。イングランドの学生のためのラテン語文法書や、ダンスタンにあてた3編の詩も著している。
988年にフルーリへ戻ると、院長オイルボルドの死後、後任の院長に選ばれた。ところが、国王とオルレアン司教の支持を得た別の修道士がこの選出に異議を唱え、問題は国の大きな関心事となった。のちの教皇シルウェステル2世となるオーリヤックのジェルベールがこれをアボに有利なように収めた。以後のアボは当時の政治にも積極的に関わった。ランス近郊のヴェルジーの教会会議にも出席し、ここではランス大司教アルヌルフが反逆罪で裁かれて退けられ、ジェルベールに道が開かれた。988年から994年までは、修道院改革をめぐってオルレアンのアルヌルフと争ってもいる。
996年、国王ロベール2世は、ブルゴーニュのベルトとの結婚をめぐって教皇から出されるおそれのあった聖務停止を避けるため、アボをローマに派遣した。途中でアボは、対立教皇ヨハネス16世にローマから追われて逃れていた教皇グレゴリウス5世に会った。教皇と院長の間には深い敬意と愛情があったという。しかし国王の求めた特免は退けられた。アボはアルヌルフのランス司教座への復帰を実現させることには成功した。また、1000年が近づいて世の終わりへの興奮と恐れがヨーロッパに広がったとき、それをしずめるうえで影響力を持った。
1004年、アボはガスコーニュのラ・レオール修道院の規律を立て直そうと、フルーリの修道士の一部をそこへ移した。しかし混乱はかえって深まり、両派の間で戦いが始まった。アボが双方を引き離そうとしたところ、脇腹を槍で刺された。傷を隠して自室に戻り、忠実な弟子アイモワンの腕の中で息を引き取った。墓で起こった奇跡のために、ガリアの教会はまもなくアボを聖人、殉教者とみなしたが、ローマから正式に列聖されたわけではないようである。東方正教会では聖人として認められ、祝日は11月13日である。著作は幅広く、復活祭の日付を求める計算法の簡略化、歴代教皇91人の伝記の要約、教会法の集成と解説、論争的な主題についての論考や書簡などがある。980年から985年ごろには、ヴィクトリウスの計算書への注釈を書き、数や知恵の性質、一と多の関係を論じた。弟子のアイモワンが書いた伝記は、アボの書簡の多くを収めており、ロベール2世の治世、特に教皇庁との関わりを知る史料として重要である。研究者リチャード・ファフは、アボを当時もっとも多才な思想家・著作家の一人とし、改革されたフランスの修道制の価値ある伝統を、生まれつつあった10世紀末のイングランドの修道院文化に伝えた点を最大の功績として挙げている。
同じ年に亡くなった人物
- ティボー2世 (ブロワ伯) (1004年没)
- オットー1世 (ケルンテン公) (1004年没)
- Nilus the Younger (1004年没)
- アデライード・ダキテーヌ (1004年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジャン・ヴォートラン (2015年没)
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