HISTORICAL PERSON · 1004年没

アデライード・ダキテーヌ

カペー朝初代フランス王ユーグ・カペーの王妃。987年に夫が新王に選ばれノワイヨンで戴冠し王妃となり、夫の信頼を得て政治への参加も許されていた。

生涯
1004年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

アデライード・ダキテーヌは、カペー朝最初のフランス王ユーグ・カペーの王妃である。アデルとも、アデライード・ド・ポワチエとも呼ばれる。生年は945年とも952年ともいわれ、没年は1004年とされる。ただし1004年は文書に最後に名が見える年であり、死去の日付も埋葬の地も分かっていない。

父はポワチエ伯でアキテーヌ公のギヨーム3世、母はノルマンディー公ロロの娘で、ヴァイキングの首領ロロの孫にあたる。兄のアキテーヌ公ギヨーム4世の子孫には、のちにフランス王ルイ7世の王妃となり、次いでイングランド王ヘンリー2世の王妃となったアリエノール・ダキテーヌがいる。アデライードの父は、ユーグ・カペーとの休戦の際に、その担保として彼女を差し出した。こうして2人は968年ごろ、あるいは969年に結婚したとされる。

987年、カロリング朝最後のフランス王ルイ5世が死ぬと、同年のうちにサンリスに集まった有力者たちの会議がユーグを新しい王に選んだ。これによりアデライードは王妃となった。6月1日にはノワイヨンで、ランス大司教アダルベロンの手によって夫が聖別され、アデライードもその傍らにいた。2人はカペー朝の創始者となり、この王朝はのちのちまで続くことになる。ユーグはアデライードの判断力を信頼し、政治に加わることを許していたという。夫が彼女を「われらの王国の仲間にして参与者」と認めた文言も伝わっており、王妃が統治にある程度の影響力を持っていたことがうかがえる。もっとも、アデライードは夫のユーグと息子のロベール2世に関わる形で簡単に触れられることが多い人物でもある。

夫妻の子には、ロベール2世、ジゼル、エドヴィジュ、アデルなどがいる。ロベール2世は972年ごろに生まれ、1031年まで生きたフランス王で、新しい王朝を固めるため、987年のうちに父から共同の王として王冠を授けられた。ジゼルは1002年ごろまで生き、ポンチュー伯ユーグ1世と結婚した。エドヴィジュは1013年以降まで生き、エノー伯レニエ4世と結婚した。エドヴィジュは信仰心が厚く、サンリスのサン・フランボー修道院の礼拝堂を建てさせたと伝えられる。末のアデルは1063年ごろまで生きたとされる。

年代記作者のエルゴー・ド・フルーリによれば、ロベールは少年のころ重い病にかかり、ユーグとアデライードは息子の命を案じた。両親はオルレアンのサント・クロワ教会で祈り、金の十字架と60リーヴルの豪華な器を奉納したところ、ロベールは奇跡的に回復したという。アデライードは息子をランスの学校に送り、のちに教皇となるオーリヤックのジェルベールに預けて教育を受けさせた。990年代の末、ジェルベールはランス大司教アルヌルフと対立し、皇帝オットー3世のもとに身を寄せた。アデライードはジェルベールをランスに呼び戻そうとしたが、ジェルベールは自分の身の安全と王国の安定への懸念を理由に、997年春の書簡でこの命令をしぶしぶ断った。夫のユーグは939年ごろに生まれ、996年10月14日に世を去った。夫が死ぬと、息子のロベールが24歳で王位に就いた。ロベールは父の生前からすでに共同の王とされていた。アデライードは、その息子が愛人のブルゴーニュのベルトと結婚して起こした婚姻をめぐる争いを見守った。その後、1004年の文書を最後に、アデライードの消息は途絶える。

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