HISTORICAL PERSON · 1001年没

藤原定子

関白藤原道隆の長女で、数え15歳で一条天皇に入内して皇后(中宮)となり、三人の子を産んだ。仕えた清少納言の『枕草子』にその魅力が記された。兄の伊周らが流罪となった長徳の変で自ら髪を切った。

生涯
1001年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

藤原定子は、976年(貞元1年)に生まれ、1001年1月13日(長保2年12月16日)に没した、一条天皇の皇后である。号は中宮、のち皇后宮で、一条院皇后宮とも通称される。関白内大臣・藤原道隆の長女で、母は高階成忠の娘の貴子、兄に伊周、弟に隆家がいる。脩子内親王・敦康親王・媄子内親王の生母でもある。

989年に父方の祖父である摂政・藤原兼家の腰結いで着裳し、このとき初めて記録に現れる。990年、数え15歳で4歳年下の一条天皇に入内して従四位下に叙せられ、まもなく女御となった。この年に父の道隆が摂政・藤氏長者となり、道隆一族の中関白家は栄華を謳歌する。10月には皇后に冊立されて「中宮」を号したが、当時すでに皇太后と太皇太后、中宮がそろっていたため、道隆は「中宮」の称号を皇后から分離し、「四后並立」という前代未聞の形をつくった。世人の反感を招いたという。道隆は弟の道長を中宮大夫に命じて補佐させようとしたが、道長は父の喪中を理由に立后の儀式を欠席した。994年ごろからは女房の清少納言が仕え、随筆『枕草子』は定子の類なき魅力を記している。「香炉峰の雪」の逸話にも見える定子と清少納言の主従は、のちの時代まで長く君臣一致の理想的なあり方とされた。夫の一条天皇は、道隆が定子以外の入内を許さなかったため当初は定子を独占していたが、道隆の没後は他の娘も入内した。天皇は他の后妃とも仲が良かったものの、とりわけ定子と睦まじかったと伝えられる。

995年に道隆が、ついで叔父の道兼が急死すると、道長と兄の伊周が権力を争い、中関白家は荒れていった。翌996年には伊周と隆家が花山法皇奉射事件を起こす(長徳の変)。懐妊中の定子は内裏を退出して二条宮に移ったが、ほとんどの公卿は行列に従わなかった。左遷の命を受けても出発しない伊周と隆家をかくまったため、5月1日に検非違使の捜査が入り、この日、定子は自ら鋏を取って髪を切り、落飾したと見なされた。同年夏には二条宮が全焼し、10月には母の貴子も没した。そうしたなかの12月16日、第一子の脩子内親王を出産している。

998年に伊周らの罪が赦され、一条天皇が脩子内親王との対面を望んだことから、6月に定子は再び宮中に迎えられた。御所は清涼殿から遠い職の御曹司とされ、出家後の后の入内は異例で、藤原実資は日記『小右記』に「天下不甘心」と記した。999年11月に第一皇子の敦康親王を産む。翌1000年2月には藤原彰子が皇后に冊立されて「中宮」を称し、定子は「皇后宮」と称することになって、史上初めての「一帝二后」となった。同年の暮れ、第二皇女の媄子内親王を出産した直後に世を去り、生前の希望で鳥辺野の南のあたりに土葬された。

臨終に残した「夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき」の歌は、『後拾遺和歌集』の哀傷巻頭歌となり、『百人秀歌』にも採られた。一条天皇は定子の死を、藤原行成に「皇后宮已頓逝甚悲」と語っている。定子の死後、中関白家は没落し、敦康親王は後ろ盾となる外戚がないとして立太子を退けられた。媄子内親王は9歳で早世し、脩子内親王は54歳まで生きたが生涯独身で、定子の血筋は敦康親王の娘が産んだ2人の皇女を最後に絶えた。『新古今集』には「一条院皇后宮」の作として「いにしへの海人やけぶりとなりぬらむ ひとめも見えぬ塩釜の浦」の歌も収められている。2024年には、里第の跡と思われる京都市中京区で顕彰碑の除幕式が行われた。

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