伝記
コミタ・ニコラ(コメス・ニコラ、ニコラウス)は、10世紀のブルガリアの地方支配者で、コメトプロイ(「伯の息子たち」)と呼ばれる一族の祖である。「コメス」は伯を意味する称号で、コメトプロイとはギリシア語で「伯の子ら」を指し、アルメニア語では「コムサヤグク」と呼ばれた。没年は1000年とされるが、フランス語圏の記述には、およそ900年ごろから976年の人物とするものもあり、生没年は定かでない。
一族の出身については、アルメニアの年代記者タロンのステパノスが、アルメニアのデルジャン地方から来た家系だと伝えている。ニコラは同じアルメニア出身のリプシメ(フリプシメ)と結婚し、ダヴィド、モーセ、アロン、サムイルの4人の息子をもうけたとされる。ただし、ミカエル・パライレは、ニコラの家名はシシュマンであって、アルメニア系の名ではなく、数世紀後にブルガリアの王家となる家名だと主張している。リプシメをアルメニア王アショット2世の娘とみる説もあるが、アショット2世とその妃に子があったことは知られていない。ビザンツの歴史家ヨハネス・スキュリツェスは、ニコラをブルガリアで最も有力な伯の一人としている。
ニコラ本人については、息子たちとの関係を除いてほとんど何も分かっていない。ソフィア(セルディカ)を治めていたともいわれ、また別の説では、現在の北マケドニアにあたる地域の地方の伯であったとされる。一族の領地は、パラトヴォ村の上方にあったとされ、伝説や考古学上のいくつかの資料がその近辺を示している。
息子たちは、970年代のいつか(正確な時期は不明で議論がある)、ブルガリアを征服して間もないビザンツ帝国に対して反乱を起こし、これに成功した。兄弟が早くに亡くなったのちはサムイルが唯一の指導者となり、996年から1014年に没するまでツァーリとしてブルガリアを統治した。
992年から993年にかけて、サムイルはプレスパ湖に近いゲルマン村に、両親と兄弟ダヴィドを追悼する碑文を建てた。この碑文によってサムイルの家系が知られている。スラヴ語で書かれた墓碑の銘文であり、おそらくそこに記された人々の墓であったと考えられている。
同じ年に亡くなった人物
- ゾエ・カルボノプシナ (1000年(推定))
- 藤原興風 (1000年(推定))
- ビャルニ・ヘルヨルフソン (1000年(推定))
- アブー=マフムード・ホジャンディー (1000年没)
- オーラヴ1世 (ノルウェー王) (1000年没)
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