伝記
ムカッダスィー(マクディスィーとも)は、中世のアラブ人地理学者である。本名はシャムス・アッディーン・アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・アフマド・イブン・アビー・バクルといい、エルサレム人を意味する呼び名で知られる。著作は『諸地方の知識における最良の分類』で、とくに故郷パレスチナの生き生きとした描写が高く評価されている。
生涯について、本人の著作以外の情報はほとんどない。13世紀のイブン・ハリカーンの膨大な人名録にも名はなく、同時代の人々の著作にも生涯への言及はない。エルサレムで生まれ、7世紀のイスラム教徒による征服のころからこの町の周辺に根を張る中流の家に属した。呼び名は、イスラム教徒がエルサレムを指すバイト・アル・マクディスに由来する。父方の祖父アブー・バクル・アル・バンナーは、エジプトとシリアの自立したアッバース朝総督アフマド・イブン・トゥールーン(在位868年〜884年)の命で、アッコの海の要塞の建設を担った。母方の祖父アブー・タイイブ・アッ・シャッワーはホラーサーンのビヤールからエルサレムに移り住んだ建築家であった。著作や社会的背景からみて十分な教育を受けたとみられ、韻を踏んだ散文や詩を用いる文章は、アラビア語の文法と文学への深い知識を示すと評される。法学、歴史学、文献学、ハディースへの早くからの関心も、著作からうかがえる。
967年に初めてメッカ巡礼を行い、この時期に地理学の研究に身を捧げる決意を固めた。必要な情報を得るため、イスラム世界を広く旅し、アンダルス、シンド、スィースターンを除くすべての地域を訪れたという。年代がわかる旅としては、965年から974年の間のアレッポ訪問、978年の二度目のメッカ巡礼、984年のホラーサーン訪問があり、985年にはシーラーズに滞在して、集めた材料を著作にまとめることを決めた。
その著作は、先人のジャーヒズやイブン・アル・ファキーフの影響を受けた可能性があるが、研究者ミケルによれば、それらをしのぎ、真の地理学と呼ぶべきものに到達していた。ミケルは、彼が地理学を独自の学問として望み構想した最初の人物だったと推測し、本人も序文でそう述べている。彼はバルヒーが始め、イスタフリーや同時代のイブン・ハウカルが発展させた、イスラム世界の「地図帳」の学派に属した。この学派はほぼイスラム世界だけを扱い、ムカッダスィーはそれを一つの領域とみなして、アラブの領域とアラブ以外の領域の二つに分けた。前者はイラク、アクール、アラビア、シリア、エジプト、マグリブの6州、後者はマシュリク、シンド、キルマーン、ファールス、フーゼスターン、ジバール、ダイラム、リハーブの8州からなる。
この書では、訪れた土地を体系的に記し、シリア地方、とくにパレスチナに一節を割いた。巡礼者だった旅行者たちと違い、住民、暮らし、経済、気候にまで詳しく触れた。エルサレムについては、街路、城壁、市場、公共建築、ハラム・アッ・シャリーフの岩のドームやアクサー・モスクなどを詳述し、ムスリムを中心にキリスト教徒やユダヤ教徒の共同体も描いた。キリスト教徒の振る舞いには批判的で、この町を「サソリで満ちた金の盆」と形容した。パレスチナ州とヨルダン州の州都であるラムラやティベリアスも詳しく取り上げ、アッコ、ベイサン、カイサリア、アンマン、アイラなども簡潔に記して、パレスチナを人口が多く豊かな地方と印象づけた。
同じ年に亡くなった人物
- ボゴミル (1000年没)
- マッツェーンドラナート (1000年没)
- ガルシア2世 (ナバラ王) (1000年代没)
- ログネダ・ログヴォロドヴナ (1000年)
- ゴラズド (1000年(推定))
同じ地域に関係する人物
- アフマド・イブン・アラブシャー (1450年没)
- カラーウーン (1290年没)
- ファリダ (エジプト王妃) (1988年没)
- サーリフ・サーリフ (1360年没)
- ヤクーブ・ブン・キッリス (991年没)