伝記
ヨハネス15世は、10世紀末のローマ教皇で、在位は985年から996年4月に死去するまでであった。ローマの生まれで、レオという司祭の子とされる。出生名はジョヴァンニ・ディ・ガッリーナ・アルバという。前任のヨハネス14世が力ずくで退位させられたのち、対立教皇ボニファティウス7世が11か月ほど君臨し、その死後に選ばれた。クリュニー修道院による教会改革運動の保護者でもあり、教会や修道院に多くの特権を与えた。神の平和(神の休戦)という考えの起源になった人物ともされる。
ヨハネス15世が教皇に就いたころのローマは、ローマ貴族クレッシェンティウス2世の勢力下にあった。当時の年代記によれば、貴族の影響は教皇にとって耐えがたいほどで、賄賂を払わなければローマに入れないほどだったため、教皇はトスカーナへ逃れて、皇后テオファヌの支持を求めた。しかし結局、貴族の約束に折れてローマへ戻り、その後の在位はこの有力者の影響下で過ごしたという。989年に、神聖ローマ皇帝オットー3世の母で摂政のテオファヌがローマに入ると、クレッシェンティウス2世らの勢力は抑えられ、その状況は991年まで続いた。ドイツの宮廷とは友好的な関係を保った。993年1月31日にはラテラノで教会会議を開き、アウクスブルクのウルリヒ司教の列聖式を執り行った。2月3日付けの教皇公文書で仏独の司教たちに知らされたこの列聖は、史上初の教皇による列聖とされる。
在位中には、ランス大司教の任免をめぐる深刻な論争が起こった。フランス王ユーグ・カペーは、カロリング家出身でロテールの庶子であるアルヌルフを989年にランス大司教に任じた(988年ともいわれる)。ところがアルヌルフは王を裏切り、叔父のロレーヌ公シャルルとともにランスとランを占領した。ユーグは反撃して二人を捕らえ、オルレアンに幽閉した。991年6月、ランス近郊のサン・バールの教会会議で、アルヌルフは叛逆罪により降位させられ、後任にジェルベール(のちのシルウェステル2世)が選ばれた。この会議に教皇の使節はいなかったため、ヨハネス15世は特使を送ってアーヘンで会議を開かせ、反対の決議を採択させたが、フランス司教は参加せず、ジェルベールは破門された。994年には、フランス司教たちがシェルで会議を開き、アーヘンなどの決議を無効とした。教皇がローマでの会議を求めると、彼らは道程の遠さや情勢の不安定を理由に拒み、995年5月2日のムーゾンの会議には、弁明を求めるジェルベール1人しか出席しなかった。この会議は、アルヌルフの罷免の無効を改めて宣言した。
しかし、テオファヌがローマを離れると、金銭欲が強く血縁者を優遇するヨハネス15世に対するローマ市民の不満が高まり、995年から996年の間に教皇はローマから追放された。オットー3世がローマを回復しようと進軍したが、皇帝の到着より前の996年4月初旬に熱病で死亡した。ランスの問題は解決しないままであった。旧サン・ピエトロ大聖堂に葬られ、後任にはオットー1世の曾孫ブルーノがグレゴリウス5世として選ばれた。自らを15代目のヨハネスと自覚し公文書にも記していたが、のちに、14世と15世の間にもう一人ヨハネスがいたという伝説が生まれ、一部の歴史家は16世とも呼んだ。今日ではこの伝説は否定されているが、混乱に起因する21世以降の世数は修正されないままである。
同じ年に亡くなった人物
- ウード1世 (ブロワ伯) (996年没)
- ヘルマン1世 (ロートリンゲン宮中伯) (996年没)
- ユーグ・カペー (996年没)
- アズィーズ (996年)
- リシャール1世 (ノルマンディー公) (996年没)
同じ地域に関係する人物
- グレゴリウス4世 (ローマ教皇) (844年没)
- Sandro Penna (1977年没)
- アレクサンドリアのメネラウス (140年没)
- シルヴァーナ・パンパニーニ (2016年没)
- ヨハン・ゼバスティアン・バッハ (画家) (1778年没)