HISTORICAL PERSON · 1891年没

レオポルト・クロネッカー

リーグニッツ生まれのドイツの数学者。代数的整数論や楕円関数などで業績を残し、クロネッカーのデルタに名を残す。整数は神の作ったものと述べ、構成的な証明を重んじてカントールの集合論を攻撃した。

生涯
1891年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ベルリン)
出生地
ポーランド共和国(レグニツァ)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ベルリン)

伝記

レオポルト・クロネッカーは、1823年12月7日、リーグニッツ(現在のポーランド・レグニツァ)で生まれたドイツの数学者である。ユダヤ系の商人の子で、裕福な家庭に生まれて満ち足りた教育を受け、1845年にベルリン大学で学位を得た。指導教授はディリクレで、学位論文は代数的数体の単数に関する数論の研究だった。学位取得後は、亡くなった伯父の銀行と農場を引き継いで経営し、財政的にも成功させた。この約8年間は数学の論文をほとんど書かなかったが、のちに数学の世界へ戻った。

ヤコビやディリクレ、アイゼンシュタイン、クンマーといったドイツの先達の仕事に立ち、パリ滞在中にはエルミートなどの影響も受けて、群論、モジュラー方程式、代数的整数論、楕円関数、行列式の理論で大きな業績を残した。1853年の論文ではガロア理論を再整理し、五次方程式が代数的に解けないことの最も簡単な証明を与えたが、現在の数学史ではあまり顧みられていない。代数的整数論では、哲学的な理由からデーデキントのイデアルの理論を受け入れられず、その代わりに因子の理論を導入した。デーデキントの方法が一般に採用されたため、クロネッカーの理論は長く無視されたが、有用だとわかり、20世紀に何人かの数学者によって復活した。主な業績には、有限生成アーベル群の基本定理、クロネッカー=ウェーバーの定理、「クロネッカーの青春の夢」があり、のちに高木貞治が青春の夢を解決して類体論を発展させた。名前は、クロネッカーのデルタ、クロネッカー積、クロネッカーの極限公式にも残っている。連続性の概念にも貢献し、無理数の形を実数で再構成したが、同僚ワイエルシュトラスによる、連続でどこにも微分できない関数の定式化は否定した。

もともとは既存の理論を単純にして洗練させることに関心があったが、次第に構成的で有限の操作しか行わない証明でなければ疑わしく感じるようになった。そのため、有界な実数列は収束する部分列をもつというボルツァーノ=ワイエルシュトラスの定理を認め難く、整数から有限の演算で得られない数は存在しないとまでみなすようになった。「整数は神の作ったものだが、他は人間の作ったものである」という言葉が有名である。リンデマンによる円周率の超越性の証明(1882年)を「美しいが、しかし意味のないものだ。何故なら超越数は存在しないのだから」と評した。カントールが超越数は無限に存在することを証明したが、彼の立場からはその結果は意味をもたなかった。ベルリン大学ではワイエルシュトラスと長く反目し、研究分野の近いデーデキントの研究を雑誌に載せないこともあった。自分の雑誌へのカントールらの論文の掲載を拒み、カントールの実数論や人格まで公然と非難した。カントールはこれにひどく傷つき、のちに精神的に不安定になる一因になったともされる。

クロネッカーの見方は決して独断的なものばかりではなく、のちにポアンカレやブラウアーが数学を直観に基づいて組み立てる直観主義を発展させる基盤になった。晩年はアイゼンシュタインの楕円関数論に着想を得て、独自の楕円関数論を展開しようとしていたことも指摘される。1891年12月29日にベルリンで死去した。死の1年前にキリスト教に改宗していたという。

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