伝記
ゴットフリート・ケラーは、1819年7月19日にチューリッヒで生まれたスイスのドイツ語作家である。ろくろ職人の息子として生まれ、父ルドルフは彼が5歳のときに亡くなった。父の死因は事故とも結核ともいわれる。母エリーザベトは六人の子を産んだが四人が亡くなり、残ったのは妹レグラだけであった。一家は父の死後、絶えず貧しさに苦しみ、母の手一つで彼と妹を育てた。小学校を出て実業学校に進んだが、反抗的で教師と衝突しがちだった。1834年に政治的な騒ぎに関わって退学処分を受け、それから画家になろうと修業を始め、風景画家シュタイガーの徒弟となり、1837年には水彩画家ルドルフ・マイヤーのもとで学んだ。1840年から2年間ミュンヘンに留学し、王立美術アカデミーで学んだが、十分な成果は得られなかった。
1842年に失意のうちにチューリッヒへ帰り、画業をあきらめて文学の道に進んだ。政治詩や恋愛詩を書いて認められ、1846年に『詩集』を出した。政治詩には、当時チューリッヒに亡命していた急進的な詩人ヘルヴェークとフライリヒラートの影響があり、スイスを二分していたプロテスタント諸州とカトリック諸州の抗争にも強い関心を示して、プロテスタント義勇軍に2度参加している。1848年にチューリッヒ州の奨学金を得て、ハイデルベルクに留学した。そこで無神論の哲学者フォイエルバッハの講義を聴いて、大きな影響を受け、急進主義が宗教の問題にも及んだ。
1850年にベルリンに移り、5年間滞在した。苦しい生活を送りながら、少年の人間形成の過程を描いた自伝的教養小説『緑のハインリヒ』を書いた。波乱に満ちた生い立ちを母への感謝と後悔の気持ちを込めてまとめたもので、1854年から1855年に刊行され、近代ドイツ文学の傑作の一つと数えられる。文壇の反応は冷ややかだったが、1879年から1880年の改作は、はるかに温かく迎えられた。ベルリンでは、スイスの架空の小都市を舞台にスイス人の生活をユーモアを込めて批判的に描いた短編集『ゼルトウィーラの人々』(第1巻は1856年)や、悲劇的な物語『村のロメオとユリア』(1856年)も執筆した。後者は、のちにイギリスの作曲家ディーリアスによってオペラになった。
1861年にチューリッヒ州政府の第一書記に選ばれ、以後15年間在任し、専ら政治生活に専念した。1872年に、キリスト教の初期を扱う『七つの聖譚』を出した。退職後は文筆活動を再開し、故郷の歴史を取材した『チューリッヒ短編小説集』や、1882年の恋愛小説集『寓意詩』、1886年の時代批判的な長編『マルティン・ザーランダー』などを矢継ぎ早に発表し、ドイツ語リアリズム文学の最高峰と目されるに至った。小説は長編も短編もリアリズムを根底に置きながらロマンティックな味わいがあり、高度な悲劇性とユーモアを兼ね備えるため、「スイスのゲーテ」と呼ばれた。彼の肖像は、スイスの第5次紙幣の10フランに描かれていた。晩年は、妹レグラを家政婦として独身で暮らした。態度は愛想に欠け、極端に控えめで個性が強かったが、市民の愛情を集めた。1890年7月15日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ヘレーネ・イン・バイエルン (1890年没)
- African Spir (1890年没)
- ウィリアム・ワース・ベルナップ (1890年没)
- ジョージ・クルック (1890年没)
- ウィリアム・ケムラー (1890年没)
同じ地域に関係する人物
- メラニー・ソーントン (2001年没)
- イワン・イリイン (1954年没)
- ニキ・ラウダ (2019年没)
- リヒャルト・R・エルンスト (2021年没)
- コンラート・ゲスナー (1565年没)