伝記
ジェファーソン・フィニス・デイヴィスは、1808年6月3日に、ケンタッキー州クリスチャン郡で、サミュエル・エモリー・デイヴィスと妻ジェーンの末子として生まれた軍人、政治家である。デイヴィス家はウェールズ系移民の一族で、祖父の代にアメリカへ渡り、父は叔父とともにアメリカ独立戦争に義勇兵として加わった。のちに「片目のジェフ」や「マッサ・ジェフ」などとあだ名された。歴史上は、南北戦争のさいに分離独立したアメリカ連合国で、唯一の大統領を務めた人物として記憶されている。
陸軍士官学校の士官候補生として歴史に現れ、一時退役をはさみながら、米墨戦争ではミシシッピ州の義勇軍を指揮した。戦後は政治家に転身してフランクリン・ピアースの秘書となり、ミシシッピ州選出の下院議員、次いで上院議員となって上院軍事委員会の委員長を務めた。恩人のピアースが大統領に就任すると、陸軍長官として入閣した。やがて南部分離をめぐる政治対立が決定的になると、南部出身者として、またミシシッピ州の代弁者として、立場を決めなければならなくなった。彼個人は内戦や、その根源の奴隷制の維持を支持しなかったが、分権論者として、地方政府が中央政府から離脱することは連邦制における自治権の範囲だと結論した。1861年1月21日にミシシッピ州の連邦離脱を支持する演説をして、自らも合衆国議会の議席を放棄すると宣言した。2月18日にアメリカ連合国が組織されると、臨時議会により暫定大統領に選ばれ、同年のうちに正規の初代大統領(任期6年)に就任した。
連合国大統領として戦争の指導を担ったが、はるかに豊かで政治的にも結束した合衆国に対抗する方策を見つけられなかった。外交ではヨーロッパの有力国から支持を得られず、経済でも、独立で混乱した南部経済を組織できなかった。急場をしのぐための紙幣の乱造は、南部の通貨の価値を不安定にした。歴史学者によれば、彼の性格や気質は国家指導者として不利に働いた。どんな細事も自分で決裁したがり、極端に委任を拒んだため、各部門の責任者としばしば衝突した。神経質で人嫌いだったとされ、民衆の人気も今ひとつで、本人も好かれようとしなかった。人事でも、好悪の感情より能力を優先する冷静な判断に欠けた。1863年には、ローマ教皇ピウス9世に、戦争の悲惨さを訴える私的な手紙を自ら書き、南部を国家として認めてもらおうとしたと考えられる。数か月後に教皇は彼を「アメリカ連合国大統領」と呼んで返事を送った。
敗戦後の1865年5月10日、戦犯として拘束され、国家反逆罪に問われたが、有罪にはならなかった。ただし公職に就く資格は奪われた。彼は民衆と距離を置く指導者だったため、連合国国民の愛国心は、おもに総司令官のリー将軍に集まる傾向があった。しかし戦後のレコンストラクションに反対し、南部に殉じ続けた姿は、旧連合国の人々から強い尊敬を集め、1889年12月6日に没したのちも、南部人が最も尊敬する偉人の一人となった。一方で、奴隷制を容認していたとみなされており、2020年5月の白人警官による黒人男性の暴行死事件に端を発した抗議運動では、連合国の首都だったリッチモンドの彼の像が、デモ隊によって引き倒された。
同じ年に亡くなった人物
- マイルズ・ジョセフ・バークリー (1889年没)
- ジョン・ボール (博物学者) (1889年没)
- ダミアン神父 (1889年没)
- オレ・ヤコブ・ブロッホ (1889年没)
- ジョン・ヒューズ (実業家) (1889年没)
同じ地域に関係する人物
- Robert Pitts (2011年没)
- バディ・ボールデン (1931年没)
- ヒューイ・ロング (1935年没)
- グレン・ハーディン (1975年没)
- ヒュー・トンプソン (2006年没)