伝記
藤原実頼は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人である。関白・藤原忠平の長男で、母は宇多天皇の娘の源順子。藤原北家の嫡流として藤氏長者となり、村上天皇の天暦の治を支えたが、外戚の地位を得られず、嫡流は弟の師輔の子孫へ伝わった。有職故実に通じ、小野宮流を創始した人物でもある。
延喜15年(915年)、16歳で元服し、翌日に従五位下に叙された。この叙位は宇多法皇の口添えによるものと『醍醐天皇御記』にある。右衛門佐や右近衛権中将などを経て、延長8年(930年)に蔵人頭となり、翌年には参議に任じられた。天慶2年(939年)に大納言、天慶7年(944年)に右大臣へ進み、村上天皇が即位した天暦元年(947年)に左大臣となった。同時に弟の師輔が右大臣となり、兄弟でそろって天皇を輔佐したこの時期は天暦の治と評される。天暦3年(949年)には父の死を受けて藤氏長者となった。
しかし後宮では、実頼が女御とした娘の述子が皇子を生まずに亡くなったのに対し、師輔の娘の安子は憲平親王、為平親王、守平親王を生んだ。天暦4年(950年)の憲平親王の立太子は、村上天皇、藤原穏子、朱雀法皇、師輔の密談で決まり、実頼は関与できなかったという。康保4年(967年)に憲平親王が冷泉天皇として即位すると、天皇に狂気の病があったため、長く置かれていなかった関白が復活し、実頼が外戚の長老として関白・太政大臣に就いた。だが師輔の子らの栄達が見込まれるなか軽んじられることを嘆き、日記で自らを「揚名関白」と称した。同じ年に准摂政とする宣旨が出されたときも、準備したのは師輔の子の伊尹と兼家で、左大弁として宣旨を発給する立場の実頼の子頼忠は、事前に知らされていなかった。
東宮には、年長の為平親王ではなく守平親王が選ばれた。為平親王の妃が左大臣源高明の娘で、源氏が将来外戚となることを実頼と右大臣師尹が恐れたためとされる。安和2年(969年)、高明は突然謀反の嫌疑をかけられて大宰府に流された(安和の変)。実頼はこの陰謀の首謀者とされるが、師尹、伊尹、兼家を挙げる説もある。同年、守平親王が円融天皇として即位し、実頼は関白から摂政に転じた。翌天禄元年(970年)に病に倒れ、5月に71歳で亡くなり、正一位を追贈されて清慎公と諡された。政治的実権は乏しく、師輔やその子孫に握られていたと考えられている。ただ、村上朝では太政官符や宣旨の発給を担う上卿を務めた回数が師輔より多い。冷泉天皇の即位式は通例の大極殿ではなく紫宸殿で行うよう改められ、これが実頼の功績と称賛されて以後の通例となった。平将門追討の将軍だった藤原忠文への恩賞では、師輔が賞を許すよう主張したのに対し、実頼は疑わしいことは行わないと主張して恩賞を出さず、忠文の恨みをかったともいわれる。
実頼は和歌に優れ、家集『清慎公集』があり、『後撰和歌集』以下の勅撰和歌集に34首が採られている。笙と箏の名手で、箏は醍醐天皇から学んだ。父の教えを受けて『小野宮故実旧例』を著し、流派の名は邸宅の小野宮第に由来する。私邸の南庭に出るときは、稲荷山を望んで威儀を正すためとして常に冠をつけていたという。堅物で、人の模範とされた一方、気難しい性格との評もある。幼名は牛養で、背が低かったため糊のきいた強装束を用いた。亡くなったときには、人々が小野宮第の門前に集まって哀悼の声をあげたという。
同じ年に亡くなった人物
- ハスダイ・イブン・シャプルト (970年代没)
- ハーラル2世 (ノルウェー王) (970年没)
- ペタル1世 (970年(推定))
- フェルナン・ゴンサレス (970年没)
- ポリュエウクトス (970年)
同じ地域に関係する人物
- 平宗盛 (1185年没)
- 大谷吉継 (1600年没)
- 華岡青洲 (1835年没)
- 武田惣角 (1943年没)
- 井上健 (サッカー選手) (1992年没)