伝記
平宗盛は、平安時代の末期の平家一門の武将で公卿であり、平清盛の三男である。母は清盛の継室の平時子で、時子の長男にあたる。安徳天皇の母である建礼門院(平徳子)は同母の妹である。1147年に生まれ、この年、清盛は30歳、時子は22歳、異母の長兄の重盛は10歳だった。重盛と宗盛は母が違ううえ、年も離れていたため、当初から2人のあいだには対立の芽があった。1157年10月、11歳で従五位下に叙され、これは清盛や重盛より早く、時子の長子として優遇されていたことがうかがえる。1159年12月に平治の乱が起こると、清盛の熊野参詣に同行していた宗盛は、乱の鎮圧後に遠江守となった。翌1161年には淡路守となった。1162年10月には左馬頭となった。1164年に関白近衛基実と妹盛子の婚姻が成立すると、重衡とともに摂関家の政所の別当になった。1167年8月には、位階が上の叔父頼盛を超えて参議となり、一門で重盛に次ぐ地位を得た。宗盛は、母の異母妹である建春門院平滋子の猶子となり、一貫して滋子の側に仕えた。
1169年12月の嘉応の強訴では、130騎の兵を率い、平氏軍の中核を担うまでになった。1170年12月に権中納言となった。1176年7月に滋子が没すると、最大の庇護者を失い、年末に権中納言を辞したが、翌1177年に重盛が左大将になると、空いた右大将に任じられた。同年6月に鹿ケ谷の陰謀が発覚し、重盛が事実上失脚すると、宗盛は表舞台に立たざるをえなくなり、1178年4月に権大納言となった。しかし同年7月16日、徳子の産む子の乳母に選ばれていた妻の清子が、腫物が悪化して没すると、悲しみのあまり右大将を辞した。11月に徳子が言仁親王(のちの安徳天皇)を産むと右大将に復帰したが、妻の死後は政治への意欲を失ったらしく、1179年2月には権大納言と右大将も辞した。1179年11月に清盛が起こした政変では、宗盛は直前に厳島神社へ向かっていたが、途中で呼び戻された。
1180年5月に以仁王の謀反が明らかになると、宗盛以下10人の大将による園城寺攻撃が決まり、以仁王らは討ち取られた。子の清宗が従三位に叙され、平氏の嫡流が重盛の系統から宗盛に移ったことを示すものとなった。6月に清盛が福原行幸を強行すると、宗盛も随行した。しかし、富士川の戦いで追討軍が大敗したと知ると、還都を進言して清盛と激しく口論し、周囲を驚かせた。清盛も還都に同意し、23日に一行は福原を出て、26日に帰京した。1181年正月19日、高倉上皇の遺言と称して、宗盛に畿内惣官の宣旨が下り、軍事の指揮権を握った。閏2月4日に清盛が没し、宗盛が棟梁となった。宗盛は、後白河法皇に恭順する姿勢を示したが、追討は続けた。
のちに内大臣となり、従一位に至った。清盛の死後は、すでに病死していた重盛に代わって一門を率い、源氏と戦ったが、木曽義仲に敗れて西へ逃れ、安徳天皇を奉じて九州へ向かい(平家の都落ち)、新しい都の建設を計画したが果たせず、讃岐の屋島に本拠を置いたことから、屋島大臣と通称された。のちに一ノ谷の戦いと屋島の戦いで敗れ、壇ノ浦の戦いで一門は滅亡した。宗盛は子の清宗とともに生け捕られ、鎌倉に送られたのち、近江の篠原で子とともに斬られ、首は獄門にかけられた。
同じ年に亡くなった人物
- ルキウス3世 (ローマ教皇) (1185年没)
- 安徳天皇 (1185年没)
- リクサ・シロンスカ (1185年没)
- Andronikos Doukas Angelos (1185年没)
- ヨハネス・キンナモス (1185年)