伝記
ヨハネ・ボスコ(ジョヴァンニ・メルキオッレ・ボスコ、通称ドン・ボスコ)は、1815年8月16日に北イタリアのピエモンテ州カステルヌオヴォ郊外のベッキ村で生まれ、1888年1月31日に没したカトリックの司祭・教育者である。サレジオ会と扶助者聖母会(サレジアン・シスターズ)の創立者で、カトリック教会では出版関係者の守護聖人とされる。記念日は1月31日である。「ドン」はイタリアで高位聖職者への敬称で、「ヨハネ」はジョヴァンニを日本のキリスト教式に読んだものである。農家の末っ子として生まれたが、ナポレオン戦争の荒廃と1817年の干ばつによる飢饉のさなかであり、父フランチェスコはヨハネが2歳余りのころ亡くなった。三人の息子を抱えた母マルゲリータが家庭を支え、のちには息子の理想の最初の支持者となった。
9歳のとき、のちの生涯に影響を与える一連の夢の最初のものを見た。回想によれば、貧しい少年たちが遊びながら神を冒涜する群れを見て、気高い服装の男から、友人たちを殴るのではなく、優しさと親切によって味方にしなければならないと告げられたという。10歳のころには日曜学校のような集まりで仲間のけんかの仲裁役となり、年上の少年たちも彼を恐れた。旅回りの芸人の技を見て学び、曲芸や手品を身につけて、祈りを前後に添えて披露した。そのために必要な金は、捕まえた小鳥を売った代金や、母がくれる金でまかなったと伝えられる。貧しさのため本格的な教育を受けられず、幼少期は羊飼いとして過ごし、最初の教えは主任司祭から受けた。兄アントニオが「お前も俺たちと同じ農民だ」と言って勉学を妨げたとも伝えられ、1827年2月、12歳のとき、家を出て農家の使用人の仕事を探した。1830年、若い司祭ジュゼッペ・カフアッソと出会い、才能を見いだされて、学びを支援された。
1835年にキエリの大神学校に入り、1841年までのあいだ哲学と神学を学んだ。1841年、当時のサルデーニャ王国の首都トリノで司祭に叙階された。イタリア統一運動と産業革命の時代に、青少年が放置される現実に直面し、もっとも貧しい少年たちのために生涯を捧げようと決意した。1859年にサレジオ会を設立し、1869年に教皇から正式の認可を受けた。1872年には、マリア・ドメニカ・マッザレッロとともに、貧しい少女の教育に当たる扶助者聖母会を設立した。1874年4月3日にサレジオ会の会憲が教皇から公式に承認され、会は教皇直轄の修道会となった。1875年からは『サレジオ会報』を発行し、これは今も世界の多くの言語で出されている。1876年には信徒の協力者の運動も起こした。1888年1月31日に帰天し、葬儀には10万人が参列したと伝えられる。1934年に列聖された。教皇ヨハネ・パウロ2世は彼を「青少年の父であり師」と呼び、ブラジルの首都ブラジリアの守護聖人でもある。弟子の少年ドメニコ・サヴィオの伝記を書き、その伝記は少年が列聖される助けになったとされる。1869年4月18日には、トリノに聖母マリア扶助者聖堂が建てられた翌年、扶助者聖母の信心会を設立した。学校事業と社会事業を通じて多くの人々を導き、現在サレジオ会の本部はローマにあり、その理想を受け継いで世界中で青少年の教育活動を行っている。
同じ年に亡くなった人物
- マリー・フォン・ヘッセン=カッセル (1804-1888) (1888年没)
- ジョージ・ビンガム (第3代ルーカン伯爵) (1888年没)
- ルイーザ・メイ・オルコット (1888年没)
- ヨセフ・ディーツゲン (1888年没)
- パウル・ランゲルハンス (1888年没)
同じ地域に関係する人物
- ジュゼッペ・ジャコーザ (1906年没)
- カルロ・アリオーニ (1804年没)
- ロターリオ2世 (イタリア王) (950年没)
- ヴィットーリオ・アンブロジオ (1958年没)
- カルロ・エマヌエーレ3世 (1773年没)