HISTORICAL PERSON · 1773年没

カルロ・エマヌエーレ3世

サルデーニャ王国の第2代国王。オーストリア継承戦争でサヴォワやニースを取り返し、戦後は内政に努めてサッサリ大学やカリャリ大学を再建した。

生涯
1773年没
死亡地
イタリア共和国(トリノ県 / トリノ)
出生地
イタリア共和国(トリノ)
出典
世界地図
イタリア共和国(トリノ県)

伝記

カルロ・エマヌエーレ3世は、サルデーニャ王国の第2代国王である。1701年4月27日に生まれ、1730年9月3日から1773年2月20日の没年まで在位した。ヴィットーリオ・アメデーオ2世と、その最初の妃でフランス出身のアンナ・マリーア・ドルレアンスの子にあたる。

トリノで、父の次男として生まれた。生まれたときはアオスタ公と呼ばれ、サヴォイア家の跡継ぎではなかった。兄のヴィットーリオ・アメデーオが1715年に天然痘で死去したため、跡継ぎになった。父はスペイン継承戦争での協力により、1713年のユトレヒト条約でシチリア王となったが、四か国の同盟の反対にあい、1720年に格下のサルデーニャ王国と引き換えにシチリアを手放していた。晩年の父は無口で憂鬱な様子を示すようになり、1730年9月3日に退位して宮廷を去った。息子は父に好かれておらず、教育も軍事の面を除けばなおざりにされていたという。ところが、シャンベリーの住まいに移った前王は、しばらくすると息子の政治に口を出し始め、王位を取り戻そうとして、息子の無能を非難した。モンカリエーリに居を構えた前王に対し、カルロ・エマヌエーレは、ミラノ攻撃で隣国の侵入を招くことを恐れて、王室会議の手で前王を逮捕させた。前王はリヴォリ城に幽閉され、そこで死去し、以後、息子の治世に干渉することはなかった。

ポーランド継承戦争では、フランスが支持するスタニスワフ・レシチニスキの側に立った。1733年10月28日にトリノで同盟条約を結ぶと、ミラノへ進軍して、ほとんど損害なくロンバルディアを占領した。ところがスペイン王フェリペ5世が、参戦の代償にミラノとマントヴァを求めたため、スペインの支配がイタリアに戻ることを恐れて反発し、交渉は紛糾した。サルデーニャ、フランス、スペインの連合軍はマントヴァを攻め、国王自身が総指揮を執ったが、最終的にスペインに割り当てられると確信した国王は、遠征をわざと妨げたという。連合軍はクロチェッタとグアスタッラの戦いで勝ったものの、オーストリアとフランスの講和により、ロンバルディアを去ることになり、1738年のウィーン条約では、トルトーナやノヴァーラを獲得するにとどまった。

オーストリア継承戦争では、マリア・テレジアの側に立ち、イギリスとオランダの財政と海軍の支援を受けた。しかし、フランス・スペイン連合軍のサヴォイア侵入を受け、1744年にはクーネオをスペイン・フランス軍の包囲から守った。翌年、約2万の兵で約6万の軍に迫られ、アレッサンドリア、アスティ、カザーレが陥落した。1746年にオーストリアの援軍を得て、アレッサンドリアとアスティを奪回し、1747年のアッシエッタの戦いでフランス軍に大勝した。主戦場がネーデルラントへ移ったことで領土は守られた。アーヘンの和約ではサヴォワとニースを取り返し、ヴィジェーヴァノも得て、交渉者としての力量を示した。

その後は七年戦争への参戦を見送り、内政に徹した。相次ぐ戦争で荒廃したサルデーニャでは、軍隊やサッサリ大学、カリャリ大学などを再建した。生涯に三度結婚し、1722年にプファルツ=ズルツバッハ公の娘アンナ・クリスティーナ・ルイーザと、1724年にポリッセナ・ダッシア、1737年にエリザベッタ・テレーザ・ディ・ロレーナを迎えた。1773年にトリノで没し、子のヴィットーリオ・アメデーオ3世が王位を継いだ。

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