伝記
アルプテギーンは、ガズナ朝の基礎を築いた人物で、ガズナの支配者としての在位は962年から963年とされる。925年ごろの生まれともいわれる。サーマーン朝に仕えたテュルク系の軍人奴隷(グラーム)の出身で、アルプティギーンなどとも表記される。
もとは中央アジアの草原を移動するテュルク系遊牧民の一員だったが、捕らえられて奴隷売買を通じサーマーン朝の都ブハラに連れてこられ、宮廷で育てられた。テュルク系の出自ながら、高度にペルシア化していたという。宮廷では近衛兵を務め、ヌーフ1世の時代には近衛隊長(ハージブ・アル=フッジャーブ)に取り立てられた。続くアブド・アル=マリク1世の下ではバルフの総督となり、961年にはホラーサーンにおけるサーマーン朝軍の総司令官(サーラール)の地位にあって、アブー・マンスール・ムハンマドの後任となった。961年2月10日には宰相アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・シブリーを伴ってニーシャープールに到着している。宮廷では強い発言力を持ち、アブー・アリー・バルアミーを宰相に推して、親しい盟友となった。セルジューク朝のニザーム・アル=ムルクが著した『統治の書』は、サーマーン朝に仕えていたころのアルプテギーンが、500の村、100万頭の羊、馬・ラバ・ラクダ10万頭、騎兵3万を所有し、国内の主要都市に宮殿、庭園、浴場、宿舎を持っていたと記している。
アブド・アル=マリク1世は、アルプテギーンを宮廷に置くことを望まず、961年(962年とも)にホラーサーン総督に任じたともされる。同年11月にアブド・アル=マリクが急死すると、アルプテギーンとバルアミーは、故人の幼い息子ナスルを君主に立てて自分たちが実権を握ろうとした。しかしファーイク・ハッサら有力者は故人の弟マンスール1世を推し、これを即位させた。バルアミーはすぐにファーイクの側に寝返り、アルプテギーンは孤立した。アルプテギーンはアブド・アル=マリクの息子が後を継ぐものと考えており、マンスールの即位に反対した。即位したマンスールは彼をホラーサーン総督から解任した。
アルプテギーンは直属のテュルク系奴隷兵とイラン系のガーズィー(信仰戦士)の一団を連れてバルフへ逃れ、962年4月、ブハラから送られた討伐軍をフルムの峡谷で破った。さらに南下してガズナへ向かった。ガズナはザーブリスターンの小さな町で、現在のアフガニスタンのカーブルとカンダハールのあいだに位置する要地であり、土着のラーウィク家が治めていた。道中ではバーミヤーンとカーブルの在地の支配者たちの軍を破った。ガズナの支配者アブー・バクル・ラーウィクを追放して町を占領し、サーマーン朝からガズナ総督としての任命を受けて地位を固めた。この政権はなおサーマーン朝の権威の下にあり、半独立の性格を持つものだった。独立後は外征に積極的な姿勢を示さず、963年9月、それから数か月後に没した。
跡を継いだのは子のアブー・イスハーク・イブラーヒームで、その後もテュルク系奴隷出身の者たちが短期間ずつガズナを治めた。アルプテギーンが買った奴隷でガズナに同行したサブク・ティギーンは、977年に町のテュルク人たちから支配者に立てられた。これがガズナ朝の始まりとされ、のちにトランスオクシアナとホラーサーンを征服する。このためサブク・ティギーンがガズナ朝の創始者として扱われる。
同じ年に亡くなった人物
- ロマノス2世 (963年没)
- ギヨーム3世 (アキテーヌ公) (963年)
- オルドーニョ4世 (963年(推定))
- Stephen Lekapenos (963年)
同じ地域に関係する人物
- アブー・ナスル・マンスール (1036年没)
- アブドゥルアリー・マザーリー (1996年没)
- セルジューク (1038年没)
- ウンスリー (1039年没)
- ビールーニー (1048年没)