伝記
エドウィは、十世紀半ばのアングロサクソン人のイングランド王で、在位は955年から959年である。端麗王とも呼ばれる。940年ごろ、エドマンド1世と最初の妃の長男として生まれた。946年5月26日、父のエドマンドはグロスターで、無法者に襲われた侍臣を守ろうとして刺殺された。このときエドウィと弟エドガーはまだ幼く、叔父のエドレッドが王位を継いだ。エドレッドは病がちで、未婚のまま三十代で世を去った。
955年11月にエドレッドが亡くなると、十五歳ほどのエドウィが王位を継いだ。日本語版の冒頭には959年との記載があるが、本文では955年11月23日にエドレッドが死んだとされている。エドウィは、九世紀初め以来、差し迫った外敵の侵入を受けなかった最初のイングランド王となった。もっとも、当時はそのような時代になるとは誰にも分からず、エドレッドは、飢饉から民を救い、あるいは異教徒の軍から平和を買うために使うよう、1600ポンドの財と遺言を残していた。エドウィが同時代の史料に現れるのは955年になってからで、この年に初めて勅書に署名している。このことから、若いころは定期的に宮廷に出仕していなかったことがうかがえる。
治世の初め、エドウィは有力な聖職者ダンスタンと対立し、彼をフランドルに追放した。このため修道院勢力から敵とみなされたが、大半の歴史家はその悪評を不当だと考えている。956年には土地の寄進に関する勅許状を60以上発布し、この数は十二世紀以前のどのヨーロッパの君主も及ばなかった。支持を買おうとしたのだとも、前王の時代から続く有力者を犠牲にして寵臣を厚遇するためだったともいわれる。
争点となっているのが結婚である。956年1月下旬ごろ、エドウィはキングストン・アポン・テムズで戴冠した。宴の席について、ダンスタンの最初期の伝記を書いた「B」と名乗る人物は、良家の女性とその成人した娘が、いずれかを王と結婚させようとして迫り、エドウィが宴を抜けて彼女たちのもとへ行ったため、貴族たちが憤慨したと記す。しかし大多数の歴史家はこの話に懐疑的で、ダンスタンを好意的に描き、王をふさわしくない人物として印象づけるための宣伝だと見る研究者もいる。結婚した相手はエルフギフで、ウェセックス最上層の貴族に属し、エドガーの即位後も良好な関係にあったらしい。エドガーは彼女に財産を与える勅許で、彼女を親族と呼んでいる。遺言で兄と呼んだエゼルウェアルドがエゼルレッド1世の子孫であることから、エドウィとは三従兄弟の一世代違いにあたるとされる。958年、カンタベリー大司教のオダは、近親関係を理由に二人を引き離したとされる。ただし、この根拠は『アングロ・サクソン年代記』の一写本だけで、成立が遅く権威ある史料とは言えないとして、婚姻の解消自体を疑う歴史家もいる。
957年、王国は分割され、エドウィはテムズ川以南を保ち、弟エドガーが北方の王となった。分割が最初から計画されたのか、敵対者の反乱の結果なのかについては、歴史家の意見が分かれる。エドウィは959年に亡くなり、エドガーが全イングランドを継いだ。ベネディクト会はエドガーの強い支援で栄え、修道士たちはエドウィを無責任で無能な王と断じた。こうした見方は二十世紀後半まで一般的だったが、二十一世紀にはエドウィを擁護する歴史家も現れた。一方で、証拠が不確かで矛盾しているため、王の実像や治世の出来事は今も明瞭でないという見方もある。
同じ年に亡くなった人物
- ムハンマド・ナールシャーヒー (959年)
- 柴栄 (959年没)
- ピエトロ・カンディアーノ3世 (959年)
- コンスタンティノス7世 (959年没)
同じ地域に関係する人物
- ジェームズ・ブラッドリー (1762年没)
- モー・ヘイダー (2021年没)
- エドワード・ジェンナー (1823年没)
- ヘイスティングス・イスメイ (1965年没)
- チャールズ・ブルック (1917年没)