HISTORICAL PERSON · 1762年没

ジェームズ・ブラッドリー

イギリスの天文学者で、グリニッジ天文台の第3代台長。1728年に光行差を発見し、章動の発見でも知られる。

生涯
1762年没
死亡地
イギリス連邦(グロスタシャー / チャルフォード)
出生地
イギリス連邦(シャーボーン)
出典
世界地図
イギリス連邦(グロスタシャー)

伝記

ジェームズ・ブラッドリーは、1692年9月(1693年3月とする資料もある)にグロスターシャーのシャーボーンに生まれ、1762年7月13日に没したイギリスの天文学者であり聖職者である。エドモンド・ハリーの後任として、1742年から第3代の王室天文官、すなわちグリニッジ天文台長を務めた。光行差と地球の章動の発見で知られる。

父はウィリアム・ブラッドリー、母はジェーン・パウンドである。甥のジョンも天文学者になった。ノースリーチの文法学校に通い、1711年3月15日にオックスフォード大学のベイリオル・カレッジに入り、1714年に学士、1717年に修士の学位を得た。初期の観測は、天文学に通じた叔父ジェームズ・パウンドのもとで、エセックスのワンステッドの牧師館で行われた。1718年11月6日に王立協会の会員に選ばれ、翌年にヘレフォードシャーのブリッドストウの牧師となって聖職に就いた。友人サミュエル・モリニューの計らいで、ウェールズにも名目だけの聖職禄を与えられた。1721年にオックスフォード大学のサヴィル天文学教授に任命されると、聖職を辞した。1729年から1760年までは実験哲学の講師として、アシュモール博物館で79回の連続講義を行った。1722年には大型の空中望遠鏡で金星の視直径を測っている。

最も有名な業績は光行差の発見である。1725年にロンドン郊外に望遠鏡を据え、モリニューが亡くなる1728年まで、ともにりゅう座ガンマ星(ロンドンの天頂付近を通る)の年周視差を測ろうとした。視差があれば、星は12月に最も南に、6月に最も北に見えるはずだった。しかし実際の見かけの動きは、3月に最も南、9月に最も北となり、視差では説明できなかった。原因は初めはわからなかったが、モリニューの死の直後、これが後に光行差と呼ばれる現象だと気づいた。テムズ川で帆船に乗ったとき、船が向きを変えると、風が変わらないのにマストの先の小旗の向きが変わるのを見て思いついた、という話がよく語られるが、おそらく作り話である。地球の公転の向きと速さが、星の光の一定の速さと組み合わさって、見かけの位置を動かすと考えれば観測とよく合い、光速度を約30万1千キロメートル毎秒と算出できた。視差は当時の精度では測れないほど小さいことも示され、星が従来考えられたよりはるかに遠いこともわかった。この発見は、地球が動いていることの決定的な証拠となり、1729年1月に王立協会に報告された。

1748年には、現在「主要章動」と呼ばれる周期18.6年の章動を発見した。光行差の検証のため、1727年から1747年まで20年間、りゅう座ガンマ星を観測し続けた副産物であった。1742年にハリーの後任の王室天文官となると、その名声のおかげで1000ポンドの観測器械を認められ、1750年にジョン・バードが仕上げた8フィートの四分儀を使って、10年のうちに天文学の改革に欠かせない膨大な観測資料を蓄えた。1752年には年額250ポンドの年金も与えられた。長年の精密な観測は星表として出版され、位置天文学の基礎を築いた。天文学史家のドランブルは、この二つの発見を「世紀のうちで最も輝かしく有益」と呼んだ。

健康を害して退職し、グロスターシャーのチャルフォードに隠退して、1762年7月13日にスキヴェラルズ邸で死去した。妻は1757年に先立ち、娘が一人残った。墓はミンチンハンプトンのホーリー・トリニティ教会にある。小惑星(2634)ジェームズ・ブラッドリーにその名が残る。

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